アキちゃんまとめ
ふたりそろって、いただきます
荒北の帰宅は早いわけではない。普通のサラリーマンならば、定時に退社できればきっと十八時半頃帰宅するかもしれない。けれど、荒北はカメラマンとして雑誌の編集やデザインにも関わっている。後輩育成という仕事も増えてからは、定時に帰ってこれることはそうそう無い。
アキは鳴らない携帯をテーブルの上に置いて、炊き上がったご飯の三分の二をタッパーに詰める。一合ずつ冷凍して、明日からの朝食に使ってもらおうと。荒北はあれで随分と食生活が杜撰だ。幼いアキの前では野菜を食べろだの味噌汁には具を大目に入れろだのと言い続けていたが、それはきっと自分よりもアキを大切にしていたからだ。アキは味噌汁の鍋の熱が少しでも逃げないようにと念を送りながら荒北の帰りを待つ。
カチリ、と時計の短針が八を真っ直ぐに指した直後、アパートの鍵が開く音がした。アキは跳ねるようにして玄関まで駆けていく。数秒で到達する距離を、アキはとても気に入っている。
「おかえりやすとも!」
鞄とジャケットを抱えた荒北に向かって満面の笑みで出迎えてやれば、タダイマ、と短い返事が返ってくる。わくわくした顔で両手を伸ばせば、苦笑した荒北がアキに鞄とジャケットを渡してくる。小さい頃から見ていたドラマでも、新婚さんはこうして旦那様の鞄とコートをもらって、それから尋ねるのだ。
「ごはんにする?おふろにする?!」
にこにこと訊けば、荒北はがしがしと後ろ髪を掻きながら、アー…と声を漏らす。
「なら、ご飯先貰うワ」
「わ、わかった!」
言うが早いかアキはぴゅっと荒北の部屋に向かった。鞄たちを置きに行ったのだろう、と思いながら荒北はキッチン横のテーブルまで歩み寄る。きっとアキちゃん食べてないだろうナ、と考えたことは間違っていなかったらしい。きちんと揃えられた二人分の食器。ちらりと流し見たシンクにも、アキが食事をしたらしい痕跡は見えなかった。
こうしたアキのいじらしさというか、ワガママというには些か寂しい事実を見るたびに荒北は少しの幸福感と罪悪感を抱く。自分を待ってくれている相手が居るということと、自分が相手を待たせてしまっているという二つの事柄。
「あのね、今日は栗ごはんとサンマだヨ!」
いそいそと温め用に魚焼き器へ一分のタイマーを入れたアキは栗ごはんをよそいにかかる。
「栗はね、おばあちゃんがたくさんくれたノ。ママが甘露煮作るって張り切ってた」
話しながら、荒北は数十秒だけ温め直した味噌汁を掻き混ぜる。二人分の椀は、荒北のものが外側が黒で中が朱色、アキのものが外も中も朱色の漆の椀だ。これは荒北とアキが事実上の婚姻を結んだ際に福富から貰ったものだ。式もまだダヨ、と茶化した荒北ではあったが、こそばゆい気持ちと共に素直に持ち帰ってきてしまった。アキはすごい!夫婦みたい!と手放しで喜んでいたから、これはこれで良かったのだろう。
夫婦みたい、じゃなくて夫婦なんだけどネ、と荒北は敢えて訂正しなかった。アキの薬指にはずっと変わらず荒北が贈ったリングが光っていて、時折それを愛おしそうにアキが撫でている姿を知っている。
ちら、とアキが荒北を見れば、荒北はせっせと味噌汁を盛っている。荒北の方に栗がたくさん入るように盛りながら、アキは心の中で唇を尖らせた。
「(じゃあアキちゃんで……なんて言ってくれるとは思ってない、ケド)」
十六歳の時にアキがわんわん泣いて、もう東堂さんや福チャンと結婚すると言ったとき、荒北は今まで見たこともないような顔をして、アキの手をひっつかんでそのまま市役所までタクシーを走らせた。驚きすぎて涙も引っ込んでしまったアキの手をずっと離さずに今度は小野田家まで引っ張られて。そこでアキは荒北が初めて自分の両親に頭を下げるのを見た。
荒北に言われるがまま、「妻になる者の名前」と書かれた欄の下に、震える手で名前を書いた。それを奪うようにして横から荒北が夫の欄に名前を書いた。アキちゃんは未成年だからァ、とアキの両親にも署名をしてもらっていても、アキは何処か夢見心地だった。これは幸せな夢だなぁと思って、ぼんやりしたままその日は眠りについた。だから次の日、朝一番で市役所に届け出をした後に荒北がアキの細い指にリングを通して、そこでようやくじわじわとこれが現実だと理解した。
結婚しヨ、アキちゃん。
それは結婚してから言う台詞ではないと思ったけれど、そんなことはもう些細なことだった。アキはぼろぼろと泣いて、そんなアキのことを荒北はずっと抱きしめていてくれた。その日は結局泣き疲れたアキは荒北のベッドを占領して深い眠りについてしまった。後にも先にも、荒北の部屋に泊まったのは、それきりだった。
アキはもう高校三年にもなり、進路希望についてしつこく聞かれる時期に入った。けれど殆ど毎日、アキはこうして荒北の部屋を訪れ、料理を作って、荒北に送ってもらいながら家に帰る日々を続けている。健全すぎて、自分に魅力が無いのかと不安になるくらいだった。
小さい溜め息を一つ。タイマーも鳴ったところで二人分の魚を取り出して食卓に並べる。祖母である坂道の母に持たされたホウレンソウの胡麻和えと胡瓜の浅漬けを並べれば二人だけの大事な食事の始まりだ。
「今日のは初物ばっかだネー。旨そ」
荒北がそう言ってくれるだけで、アキはにっこり笑って世界中の人たちに自慢したくなる。この人が私の一番大好きな人で、世界で一番かっこよくて優しい人ヨ、と。でもそんなことはただの妄想だ。ぽくん、と栗を口に放り込む。ほくほくしていて栗の甘みと塩気がちょうどよいバランスを取っている。
「(帰りたくない、けど、そんなこと言って嫌われたらどうしよう……)」
「 (アキちゃんのハジメテも貰いたいナー… て言うのはアウトだろォがァ!俺ェ!血迷うな!)」
表面上は穏やかに進む夕食の裏側でお互いが同じ方向に悩んでいることなど分かるはずも無く。今夜も荒北は二十二時前にはアキを小野田家に送り届け、アキはおやすみ、と家の門の中から手を振るのだろう。
シンデレラも驚くほどの健全ぶりに、どちらの我慢が先に限界を迎えるのか。それはまだ誰も知らない。
※平和な荒アキちゃん