アキちゃんまとめ
僕の小鳥はよく笑う-4
それは朝早くの出来事であった。
「坂道ィー!!」
旧姓巻島、元小野田という名字であるというのに未だ周囲からは巻島と呼ばれているセイレーンは、慌てふためきながら夫の名前を叫んでいた。
この空の上に作られた小さな国は総北と呼ばれ、全てを総べていた北地の王が雲の上に基盤を作ったからだと口伝えで噂されている。下界とのやり取りは無いといってもいいぐらいの頻度であるが、あちらはあちら、こちらはこちらという一種の達観した考えの元に存在している。
「ふぁ、へ、ひゃい!」
未だ寝床に居た坂道はだらりと伸びていた竜の尾を慌ててしまいながら、身を乗り出してくる巻島をどうにかキャッチした。
「おはようございます巻島さん!きょっ今日も綺麗ですね!」
「お前も男前ッショ!っつーか本題はそこじゃねぇ!」
巻島が同族のセイレーンたちから結婚祝いにもらった羽毛布団は、全く重さを感じさせず心地良い眠りを誘ってくれる。しかし今はその麗しき同族愛に逆らわなければならず、坂道は掛け布団を剥いで顔を真っ青にしている巻島に正座で向き直った。
「どうしたんですか?」
「アキが居ねぇっショ!」
アキ、とは彼らの二人の娘のうち、次女であるほう。
竜である坂道よりも、セイレーンの巻島の血を濃く引いた彼女は、少しばかりではなく向こう見ずなところがあるのは坂道も知っている。しかしその反面で他のセイレーンたちよりもずっと早く飛ぶこともできたし、並大抵の空の生き物であれば血統からくる生まれつきの威圧感に気圧されて邪なことは出来ない筈だ。更にそこに坂道の持つ水神の守護と巻島の持つ滑空の守護を織り込ませている。いくら言っても一人で下界を飛び回ってしまう少女に対し、頭ごなしに叱り付けるよりも安全だろうと踏んだうえでの処置である。
「えっ?でも昨日は……」
「昨日の昼間出てったきりっショ!最初は金城や田所っちのところに居るんだと思って聞いたショ!あともしかしたら下界で一晩過ごすのに東堂のところかもしれねぇって思ったから、お前が寝てる間にそっちにも伝書を送ってみたんだけどよ、居ないって言うし」
一昨日から昨日の深夜にかけて、坂道は水神の力を蓄えるために空の神殿の奥地で瞑想に入っていたため、知らぬのも当然であろう。流石に年頃になりつつある娘の部屋までただいまを言いに行くのは坂道にも憚られた。疲れた体を自分のベッドに滑り込ませてから幾時間も経っていない。しかし巻島も一人で探すのには限界がきたのだろう。元々の下がり眉は更に下降し、俯く顔に影がつのっていく。
「金城は空にアキの気配がしねぇって言うし、アキに何かあったら……」
今は竜の力を継承している長女がアキを探し回っているというが、巻島はとうとう両手で顔を覆ってしまう。坂道は慌てて巻島を抱き寄せながら「僕も行きます。気付かなくてすみません」と出来る限り落ち着いた声で言った。
「どうしよう坂道、もし地上の奴らにアキがいいようにされてたら……羽根とかむしられたり見世物にさせられそうになってたら……」
「きっと大丈夫です!僕らの加護だってあるんですから、悪意のある奴らには絶対に触られない筈です!そうなる前に相手の腕が焼け落ちるように念を込めてあります!」
「流石ッショォ坂道!」
大層物騒なことを言っている自覚もなく、坂道と巻島はハイタッチをし、急ぎ身なりを整えて寝所を出る。手嶋や青八木も空を探すとは言ってくれたが、ここまで皆で目を凝らしても気配の一つも拾えないのであれば、地上に降りている可能性が高い。
昨日はどうやら地上では類い稀なる大雨だったらしく、雨宿りをしていて、羽根が冷えて飛べなくなった可能性もある。アキは自身の身体のメンテナンスをするのが苦手だ。外的要因が加わると、一気にパニックになってしまう。
無事でいてくれよ、と巻島がぎゅっと両手を組み合わせた所で空一杯に鐘の音が鳴る。これは自分たちの場所に何か他の輩が侵入してきたときの音だ。
巻島と坂道は顔を見合わせ、すぐさま地上との通路となっている大樹の幹へと急いだ。
「――だからコイツの親を出せっつってんだロォ?」
「いいからその子をこちらに渡せ。お前が軽々しく触れていい存在ではないぞ」
巻島と坂道がその場にやってきた時には既に金城が冷たい瞳で、アキを抱き上げている下界の人狼を捉えていた。
「アキ!」
「パパ!」
坂道がアキを呼ぶと、今まできょとんとしていたアキがぱっと笑い、人狼の腕をすり抜けて飛び込んできた。
「アキ!お前心配させんじゃねーっショ!」
「ごめんなさいママ……」
アキは坂道の腕の中でしゅんとしながら謝るが、それがどれだけ重大なことだったのかはまだ推し量ることができていないだろう。
「俺は、ソイツが川の中に落ちてたから保護してここに連れてきただけだ。風呂にも入れて禊もさせたのはコッチの女だから邪推すんな」
「しかし女とて彼女の肌を見たのには変わりない」
「大丈夫です。僕、弱視なので」
荒北と金城の険悪な空気に、慌てて泉田が自身の引け目を露呈させる。金城の目が大きく開かれ「それは失礼した」と言葉を紡ぐ。金城とて、別に性格が悪い男ではないのだ。
フン、と荒北は鼻を鳴らし、行くぞと両側に控えていた二人に声をかける。
黒田と泉田も引き返そうとした瞬間、どん、と荒北の背を衝撃が襲う。
「ァ?」
「ピッ!」
にこにこと笑いながら荒北の背中から必死で腕を伸ばして抱きついてくるアキに、荒北の眉間の皺が寄る。通訳、と泉田に振るも、無理ですと諦められた。その間にもアキは小鳥の声でおしゃべりをしてくる。
「……アリガトって言ってるショ。あと、お前の名前を知りたいって」
「ハァ?」
アキに触れてもこの人狼の手は落ちなかった。ということは害あるものではないということだ。巻島はそう判断し、アキの言葉をすんなりと通訳してやる。何を言っている可は空の生き物ならば分かるが、まだアキの語彙は少ない。地上の生き物にはまだ正しく言葉を伝えることは難しいだろう。
「……荒北靖友。礼はいらねェ。テメェみたいのが俺の目の届く場所でのたれ死んじまってたら寝覚めが悪ィ」
アキはピュイ、と首を傾げたが、巻島に通訳をしてもらい、「やすとも」の部分は理解できたようだ。ヤ、ヤァト、とさえずりに交じって何度も復唱されている。
気恥ずかしくなり、荒北はアキを背中からはがし、今度こそ行くわ、とさっさと歩きだしてしまう。
アキは巻島に抱えられ、疲れたろ、と優しく頭を撫でられた。随分長く感じていなかった気もする母の香りに包まれながら、アキは一つ欠伸をする。
名前を教えたが最後、これから幾度となくアキが地上を訪れることになることを、今は誰も知らない。
2015/05/29