アキちゃんまとめ
君のただいまを待っている
「じゃあ行ってきます」
玄関先でにこりと笑ってから、アキはドアを開いて出て行った。
いや、別に今生の別れをするわけでも、離婚調停に入りますので別居しましょうという合図でもない。そのため、荒北は軽く、まだぎこちない「イッテラッシャイ」を投げただけだ。
荒北とアキの休みがかち合うことは少ない。荒北にとっては一緒の家に住むことになっただけでも世界が引っくり返るくらいの衝撃だったのだが、それでもアキは納得していないらしい。ワンルームの居間のテーブルに乗った卓上カレンダーには荒北の休みの日にスカイブルーで丸がつけられ、対するアキの休みの日には桜色の丸がついている。
荒北さんが心配だから、とボストンバッグと小さなスーツケースだけでアパートに現れたアキを追い返すことができるほど荒北は強くなかった。来ちゃったァと幼い頃にも似た笑みを零したアキの肩は冷えていたけれど、残業が終わって日付が変わる程の時間に帰宅した荒北をこれっぽっちも責めなかった。
その夜、アキは荷ほどきをしないまま、荒北は彼女に自分の使い古したスウェットを着せて薄い布団で抱きしめあって眠った。荒北にしては珍しい、深い眠りを味わった夜だった。
次の日、荒北の住む小さいアパートを管理している初老の女性に二人そろって挨拶をし、合鍵を一つ、もらった。いつだったかペットボトルのオマケについていた白い猫のストラップを荒北が引っ張り出し、アキが持つための鍵に通してやるとぱっと表情が華やいだ。
小さな共同生活のルールを口約束で決めて、それでもうまく回っていると荒北は思う。アキはデザイン会社でDTP(荒北が聞くに、たぶんそれはWebサイトデザインのことだろうな、と思った)をしているらしく、先方から修正の指示が入ると休日返上で出勤しなければならないそうだ。アキ曰く「だって仕事してた方が、余計なこと考えなくてすむでショ?」と。それには荒北も心当たりがあり、反論はしなかった。
過去の記憶に浸っていると、洗濯機から洗濯終了のメロディが流れる。アキが主に料理を担当してくれていることから、荒北は掃除や洗濯を心持ち多めに引き受けることにしている。
洗濯籠に洗濯ネットに入っているものごと引っ張り出して、中庭に続くガラス戸を開ける。不思議なことに、このアパートは西洋のアパートやフラットのように道に面した外側から壁、建物の順に立っており、中に猫の額ほどの共用の中庭がある。縁側に立ち、軒先に洗濯物を干していくのももう慣れたものだ。そのうち馴染みの野良猫がやってくることだろう。アキがここに住むようになってから、野良猫とは思えない、綺麗な毛並みの白い猫が訪れるようになっていた。
洗濯バサミで靴下やらシャツやらの小物をぱちぱちと挟み、さて次、と手を伸ばしたところで一瞬だけ荒北の動きが止まる。
「……アー…」
眼前まで持ち上げて、思わずまじまじと見てしまう。薄いライトブルーの生地に細く白いリボンが縫い付けられているブラジャーと、サイドが紐になっており、生地もやや薄めのショーツ。
荒北は未だ、アキの下着を干すときは少し緊張する。これが昨晩、彼女の柔らかな肢体を包んでいて、戯れに覗き見た記憶も新しい。わざと薄く作られた生地は、確かに下着としての面積の矜恃は守っていたけれど、彼女の元の色素の茂みが透けていたのを見てしまっていたのもいけない。
平常心、と誰宛てでもなく心の中で呟いて、洗濯バサミでぶらさげる。そのすぐ隣に荒北のトランクスを干したのは、認めたくない嫉妬心からだ。ぱちん、と止めれば、それで済む。しかしただでさえアキは近所の大学生たちから完全にフリーだと思われているし、先日のコンビニバイトくんの前例もある。
ここで彼女と暮らしているのはオレなんだぞ、という荒北の小さな独占欲は、さんさんと照り始めた日の光が眩しい。
チリン。
ブロック塀のてっぺんで器用に背筋を伸ばしながら白猫がこちらを見ている。
ようやく洗濯物を干し終わった荒北は、彼(彼女かもしれない)にあげるためにアキが小分けにしている煮干しを取りに家の中へと戻った。そこはひんやりとしていて、とても静かだった。
先程分かれたばかりなのに、もう彼女に会いたいってか。荒北はそうひとりごちて、一人の休日を過ごすための算段を立てようと脳内のスケジューラを起動する。けれど、どうしたって建設的な案は出てきそうにない。
「……アキちゃんが居ないと、寂しいネェ」
にぼしをぽん、と放りながら、呟く。その言葉は温かな板張りの縁側に落ちて、音も無く跳ねた。
※同棲はじめて一か月くらいも経ってないのであろう初老北さんとアキちゃん
2015/05/27