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アキちゃんまとめ

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密室


※事故のことを振り返る長男くん(18)のはなし



「――あの時、俺は母さんがもう帰ってこないと思ってたんだ」

俺の言葉に、母さんの表情が固まった。悲しさと驚愕を半分ずつ混ぜたような表情をした母さんの頬は白い。それは、夕焼けが美しい海辺で見せるべき表情ではなかった。



母さんが事故に遭ったのは俺が八歳の時だった。小学校から帰っている途中の俺を祖父ちゃんがみつけて、急いで駆け寄ってきた瞬間の悪い予感を、今でもはっきりと覚えている。それは指先に覚えのない血豆を見付けた時のように俺の心にぽつりと一点の色を落とし、次の言葉への集中力を奪っていった。

『ママが事故に遭って、入院することになったんだ。今夜は僕らの家へおいで』

誘拐犯が語る常套句のようなそれを告げる祖父ちゃんの顔はいたって真剣で、嘘のニオイなんかどこにもしなかった。微かに香った消毒液と自転車のオイルの匂いだけが鼻の奥に響いて、俺は黙って頷いた。多分、それは正しいことだった。
俺が祖父ちゃんの家に行くと、チビはもう保育園から帰ってきていたようで、祖母ちゃんの膝でけらけらと笑っていた。その陽気さに、きっとこいつは何も知らないんだと思った。その予想が、バカに鼻について、俺は黙って学校の宿題を広げていた。
次の日、俺は小学校をお休みして、チビは保育園を休んだ。昼過ぎに俺たちを迎えにきた父さんの目元が少し赤かった。イイ子にしてたァ?と聞きながら困ったように眉を寄せた父さんのその素振りが、誤魔化しているときの癖であると気付くのはもっと後だったけれど、このときの俺もなんとなくの違和感を覚えていたのだろう。俺は、ウン、と頷きながらもうまく父さんの顔が見られなかった。チビは父さんに抱き上げられて、俺は父さんのズボンをそっと握った。祖父ちゃんと祖母ちゃんとママの姉ちゃんが見送ってくれて、その日の夕ご飯までくれた。
チビは家に帰るとママは?と聞いてきた。父さんはそこでようやくチビに母さんが入院したことを言ったけれど、チビには入院ということがよく分かっていなかったのだろう。とりあえず母さんが今日は家に居ないということしか理解できていなかった。次の日の朝になっても母さんが居ないことに気付いたチビはようやく泣き出して、母さんのことを呼んでいた。父さんはチビを抱き上げて、いろいろと説明していたけれど、俺は黙って椅子に座っていた。と、思う。実を言うと、ここからはあまりよく覚えていない。
記憶に残っているのは、しばらくの間、チビが泣いてうるさかったということと、父さんの料理の味と、たくさんの大人が家に来たこと。父さんは理科の実験みたいにスプーンをたくさん使って料理をする人だったから、母さんのように時々とても甘い卵焼きが出てくるということはなかったし、魚を食べた次の日は必ず肉が出てきた。
俺はチビが泣いている間は自分の部屋でずっと本を読んでいた。何の本を読んでいたかは分からないけれど、家にある本だったと思う。今でもたまに、読んだ覚えの無い本の内容が分かるときがある。父さんの書斎にある年代物の詩集であったり、母さんの本棚にある服飾学の歴史書であったり、それらのジャンルはばらばらだった。
俺は密室でひたすらに祈っている司祭か崇拝者のように、懇々と、淡々と、日々を消化していたのだろう。父さんが俺の様子に気付いたのは母さんが入院してから何日も経ってからだった。父さんがのっぺりと表情を無くしてしまった俺を手招きして、膝に乗せようとしてきた。けれどもそれは実行されることはなかったし、俺は父さんの膝の上がチビに占領されるのを黙って見ていることしかしなかった。
その頃になれば家に毎日誰かしらがやってくることに慣れていた。祖父ちゃんや祖母ちゃんだったこともあれば、師匠や新開さんのときもあった。俺は日替わりでやってくる大人の顔を眺めながら、この人たちは母さんの代わりになろうとしているのだろうか?とぼんやりと考えていた。誰も俺の母さんにはなれなくても、代わりにはなれるのかもしれない。でも俺の母さんは一人だけだったから、俺は何も言わずに黙っていた。
日付を数えるのを諦めた頃、父さんは日曜日に俺とチビを、初めて母さんのところに連れて行ってくれた。チビは母さんにしがみついてわんわんと泣いていた。まるで蝉みたいに。俺はチビがぽたりと地面に落ちるみたいに床に落ちればいいと思った。その時、初めて俺は嫉妬というものを覚えたのだろう。父さんが泣き疲れたチビを引きはがして、俺はようやく母さんに近付くことができた。母さんは家にいたときよりも痩せていて、元気が無かった。耳の後ろに白いガーゼが貼られていたのを見て、俺はなんだかとても泣きたくなった。母さんと呼ぼうとした声は出なかった。まるで母さんが別人みたいに思えて、俺は母さんの手を握ることもできなかったし、ベッドの上に乗り上げることもできなかった。その日は結局それでおしまい。眠るチビをつれて俺たちは家に帰って、誰も居ないのにただいまを言った。
先に家の中に入る父さんの背中に、父さん、と呼びかけようとしてもやっぱり声は出なかった。きっと神様はいらない言葉を俺から取っ払ってしまったのだろう、と本気で思った。父さんも母さんも、俺には要らない言葉になってしまったのかもしれない。玄関の内鍵を閉める音が、この間の映画で見た鋏の音に似ていた。



「母さんは、きっとずっとあの病院に住むんだと思った。ンなことあるわけないのに、でもその時は本気でそう思ったんだよ」

俺は母さんの両手をそっと握って、グローブ越しにその柔らかさと細さを確かめた。自転車で出かけよう、と半ば無理矢理連れ出してきた母さんの表情はまだ困惑を宿している。
あの事故からちょうど十年。事故を起こした加害者の人のことは知らない。俺が知っているのは、母さんが身を挺して父さんを守ったということと、今でもその時の傷が痛む日があるということだ。後者は母さんから聞いたことではない。でも俺はキッチンの戸棚に鎮痛剤があることを知っているし、同じものが両親の寝室にあることも知っている。急激に冷え込んだ日や雨が降り始める前は母さんが起きてくる時間が少しだけ遅くなることも。

「毎日、居もしない、俺が考えた神様に祈ってた。母さんが帰ってきてくれますようにって。もしも叶えてくれたなら俺は一生イイ子でいます。弟の面倒もみます。テストも百点を取ります。かけっこでも誰にも負けません。馬鹿みたいに空っぽの頭で、毎日毎日」

フレームに横座りしている母さんの頬を海風が撫でている。いつまでも幼い顔をしている、と思うのは家族の贔屓目だろうか。きっとそうではない。

「ごめ、」
「謝らないで」

謝ってほしいんじゃないよ。そう言うと母さんはまるで泣きそうな顔をして、両目を細めた。きゅう、と目尻が引き伸ばされる。

「謝らないで」

俺はもう一度、確かめるように母さんに告げた。

「母さんが、あの家に戻ってきたとき、俺は嬉しかった。上手く表現できないけど、母さんは神様のところから帰ってきてくれたんだと思った。神様じゃなくて俺たちと一緒に居ることになったんだって」
「歩けなくても?」
「俺が近付けるなら歩けなくってもいいよ」
作品名:アキちゃんまとめ 作家名:こうじ