アキちゃんまとめ
続、メランコリーキッチン
「くろだ、おそーい!」
小さな男の子の声が保育園の入り口で響く。そんなことを言うのはどの口だ、とほっぺたを伸ばしてやればぴぃ、とどこから出てきたのやらという声がした。
黒田は未だに学生時代の感覚が抜けないままに泉田とのルームシェアをずるずると続けている。そろそろけじめをつけたらどう?と親に言われることもあるのだが、黒田にはそれがなんのけじめなのかさっぱり分からない。そのたびに泉田に報告しては呆れた顔をされるのだけれど。
「ンなこと言うと送ってってやんねーぞチビ助」
黒田はそう言いながらもまだ頼りない小さい体を抱き上げる。途端にキャッキャと笑いだした少年を抱えながら先生方に頭を下げた。
荒北とアキの息子である小さな彼を初めて迎えに来たのはいつのことだっただろうか。あれはアキが事故にあった直後だった筈だ。おそらく数週間単位、下手をしたら数ヶ月になるだろう入院期間を言い渡された妻の目の前では気丈に振る舞った荒北も、一歩病室を出れば青い顔で口元を覆っていた。ちょうど黒田と泉田は学校の長期休暇に重なっていた為、土色の顔をした荒北に何か助力できることはと申し出たのだ。
一端は申し出を断った荒北ではあったが、誰の目にも焦燥しているのは明らかだった。そのため、荒北が二人の息子を家に連れ帰っても、連日誰かしらがその家を訪れて彼らが妙な考えを起こさないかを確かめていた。あのときの彼らは、家族への執着心だけで生きていたように思う。荒北のそれを愛情と表現すれば良かったのか、黒田は未だに分からない。分からないけれど、今日も黒田は彼らの息子を迎えに来ている。
「くろだ、びゅーんして」
「お前この間、手ェ離してたからダメ」
「もうしない!」
黒猫の宅配便は緩やかな速度で坂を下りていく。荒北の血を引いているからか、このチビ助はなかなかにスピード狂らしく、黒田が急ぎ坂を下った時の楽しさが忘れられないらしい。たまにリクエストに答えてやるときもあるが、おおかたは安全運転だ。それはどうにも、彼女の事故を想起させるからだろう。チビ助も幼いながら両親のそれを理解しているのか、彼らの前で危ないことはしない。
黒田がこの小さな子供を引っ張るのは、毎週水曜日と土曜日の二日間だけだ。荒北の仕事の都合と、黒田の授業枠のかねあいから算出されたこの二日を、存外黒田は気に入っている。
一度、アキが申し訳ないからと黒田の申し出を断ろうとしたこともあった。けれど荒北も、黒田も首を縦に振らなかった。チビ助にも尋ねてみたが、くろだのびゅーん、すき!と言われてしまえばアキも困りながら受け入れるしかなかったのだろう。
今日も閉園ギリギリの時間に引き取ったチビ助をアパートの一室に抱えていく。インターホンを押して、宅配便デースとおどけて言えば、チビ助が同じくインターホンに向かって「です!」と元気よく答えた。
しばらくのタイムラグがあって、ゆっくりとドアが開かれる。そこにはほっとしたような表情のアキが室内用の杖を使って立っていた。
「ハンコお願いしまーす」
「はい、ハンコですネ」
くすくすと笑って、アキは未だ黒田に抱えられたままのチビ助の頬にちゅっとキスをした。途端にきゃいきゃいと騒ぎだした小さな体を玄関に下ろしてやれば、もぞもぞと靴を脱ぎ始める。その間に奥からひょこりとこれまた小さな頭が覗く。よ、と黒田が声をかけるとぺこりと頭を下げてから玄関に走り寄ってくる。
長男である彼が、次男の脱ぎ散らかした靴をそろえてやる頃には、当のチビ助は手を洗いに洗面所へと走っていた。
正直、アキは事故の後遺症も相まって、未だにすらすらと歩いたりすることはできない。手放しで立つことも、息子を抱き上げてやることもできないのだ。その歯がゆさは、黒田にはきっとこの先も分かることは無いのだろう。いや、分からない方がいいのかもしれない。
だから黒田はわざとおどけて、いつも次男を抱き上げてやる。アキが抱き抱えなくても良いように。
「今日はやすともが早く帰ってくるみたいなの。黒田くんも食べていく?」
「いや、いいよ」
そう、とアキはしゅんと肩を落とす。たまにこうして食事の誘いを受け、泉田とともに同席することがある。しかし今日のところは、それはまたの機会にしようと思った。
それじゃあ、と黒田が片手を上げれば、アキの後ろで二人の息子が黒田に手を振った。
黒田には荒北のような能力が備わっている訳ではない。けれども、この手狭な玄関には確かに薄くとも温かい、蜂蜜のような香りが漂っていた。
それはきっと、儚くとも愛おしい、幸せのにおいなのだろう。
2015/02/20