対馬で別れて
『ちょっと』と言おうとした瞬間に、よってベロベロになったキャプテンの網代君がガッターンと夏子と裕太の間に派手に倒れてきた。
「おお、ごめんごめん、と」
と言いながら、立ち上がろうとしてだめだった。
さすがにこれには夏子も興ざめして「ちょっとキャプテン、しっかりして」といいながら、こぼれたビールを拭き取るために台ふきを探しに席を立っていった。
それっきりになったと思う、この二人は。きっと翌日も数日後も裕太は、夏子にメールをしたり、電話をかけたりもしなかったはずだ。
私は、裕太が私にべた惚れと自信があったので、それきり裕太に浮気してないかとか探りを入れたりしなかった。第一結婚式の打ち合わせとかで忙しくなったから、裕太にそんな探りを入れたりとかも出来なくなった。
それでも、春になって裕太にはおかしなところがあった。
【8月4日午後2時10分。中原病院312号室】
夏子は、背が高くてタイトスカートがよく似合う。化粧が濃くて、いつも匂いのきつい香水を使っている。同性には嫌がられるタイプだと思う。夏子はなんと答えるんだろ。これまでのところ、裕太と最後に一緒にいたのは、夏子ということは間違いないようだ。
お昼近くになって、少し空腹になったはずなのに、空腹を感じなかった。逆にムカムカして来た。パイプ椅子に座っていた私は、右手の平でおへその下を触ってなでた。おへその奥の赤ちゃんを守るかのように。
”赤ちゃん、ママはここにいるから”
と私は呟きながら、お腹の私の赤ちゃんに語りかけた。
お腹に子どもがいるというのは、不思議な感覚だ。それは、私のお腹の中の、私の身体の一部だけども、私ではない別の存在。なぜ私のお腹に来てくれたんだろう、という思いが沸々と湧いてくる。
今日も太陽は元気だ。燦々と光を注いでいる。それでも、312号室は南向きで、クーラーが効いているので、外の光の強さだけが私の目にしみた。白いGショックを見たら、午後2時30分になっていた。予定の時間を過ぎた。私がドアに目をやると、「ガラっ」と音がするとともに、内開きのドアが開いた。
ドアが大きく開かれて、大きな女性の顔のロゴ入りのTシャツにタイトスカートをはき、ピンクのバッグを背中にひっかけた夏子が、目をつり上げて入ってきた。
夏子は、たったまま私をパイプ椅子に座った私を見下ろしながら
「あたし、知らないわよ、裕太が一人で倒れちゃったんだから」
と言った。
「どういうことよ、大体どうして裕太と一緒にいたのよ」
と言い返した。
夏子は黙ってしまい、どこから話そうかと迷っているような顔をした。
「それは・・・」
「それは?」
「あのとき、偶然厳原町内で裕太に会ったのよ、で裕太があんたと婚約していたのは知っていたけど、いろいろと話が盛り上がってさあ。。」
「うん、で?」
「だから、居酒屋に行って」
「うん、で?」
「次に、カフェ「風音屋」に行ったわ」
「ほう、ずいぶん話しが盛り上がったことだわねえ」
「いいでしょ、あんたたちは婚約しているけど、結婚はしてないわけだから」
「普通そんなこと言い分けないでしょ、夏子が誘ったんでしょ」
「誘ったってなによ?」
その言い方じゃあ、そのあと夏子と裕太がなにかしたかどうか、つまり関係したかどうかはっきりしない。でも夏子には自信というものが足りないような気がする。
「それで、風音屋さんに行ってから、それからどうしたの?」
「それからは何もないわよ」
まだ疑わしかった、その言い方は疑わしかった。
「何もなかったのね?何時に風音屋さんを出たかは、マスターに聞けば分かるわね」
「なんでも聞いたらいいわ」
「それよりか、なんで裕太が倒れたのよ?夏子はりょうこに『裕太が倒れた』って電話したでしょ。どういうことよ!」
「それは、風音屋さんで別れてから、2、3時間してから裕太から電話があって『病院、病院に行く、救急車呼んで』って言われたから、私が救急車呼んであげたんだから」
「本当なの?」
「本当よ?」
「・・・」
「じゃあ、私帰るわね。ああこれ上げておいて」
と言って、夏子は3000円くらいはしそうな赤と黄色が多く配色されたブーケのセットを私に押しつけた。
私は夏子が花束を持ってきたのは、やはり裕太に渡したくて持ってきたんだろうと思った。なにかお礼の言葉を言おうとしたが、私を遮って夏子は
「それにさあ、救急車を呼んだ場所がどこか知っている?」
「ええ、どっか居酒屋かいわいか裕太の家じゃないの?」
「違うわ、あんたの家よ、あんたの家近くだったわよ」
「はあ、どういうこと?」
「知らないわよ」
「裕太の家と私の実家は歩いて30分くらい離れているのよ」
「そうね、だけど、裕太はあんたの家にいたと思ったけど」
夏子はそういうと、「じゃあねえ」と裕太に手を振りながら出て行った。そして、最後のウィンクした。
どういうことなんだろう、私はきっと裕太は夏子と一緒だったときに、飲み過ぎて脳出血でも起こしたと思ったけど、違うのかしら、もしかしたらやはり誰かから殴られたとか。
夏子と別れてから、居酒屋界隈でよっぱらいから絡まれて、通りがかりに殴られて、打ち所が悪かったとか、それで脳出血になってしまったか。
私は一人残された病室で、また悩みを増やすことになった。
いったい、どうしたっていうのか?いったい何が起こったのか?
裕太、起きてよ、起きて。
私はいつもこうだ、一人取り残されるんだ。とくに病室で。6歳の時に、パパが病室のベッドで寝いていた。私が「起きてよ、起きて」と言ったのに起きてくれなかった。
【8月4日午後7時10分。民宿パゲルマ】
私はまだ実家に帰っていない。実家には、私の祖母が一人で暮らしている。6歳で私のパパが死んでから、ずっと私を育ててくれたおばあちゃんが実家に一人で暮らしている。
本当なら、対馬に帰ったらすぐに会いに行かなければいけない、そして、元気な姿を見せないといけないと思っている。でもまだ行けていない。一つには、私が一人で対馬から離れて福岡に出てきてしまったことの後ろめたさがあるからだ。
おばあちゃんには本当にお世話になった。その私がいまおばあちゃんの家から、1時間とかからない場所にいるというのに、会いに行くことが出来ない。
その私のお腹の中に、赤ちゃんがいる。私が小学校の時に生理になって、その後も順調に成長したからこそ妊娠した。
それは、私が厳原小学校5年生の4月の終わりのことだった。私は学校からおばあちゃんの待っているアパートに帰る途中で、自動車はスモールライトを付けていた。暗くなり始めて心細かった。そして、4月になったというのに、風が冷たくて心臓から胃の辺りまでが、きゅっと締め付けられていた。あと10分でアパートに着くと言うときに、パンツの中が変だった。なにかが濡れて気持ち悪かった。私はアパートに帰って、おばあちゃんに「おばあちゃん、ごめんなさい。なんか漏らしちゃった」と言いながら、右手でパンツを触った。スカートをずらして、上からパンツの中を見たら、血が付いていた。
それを横で見ていたおばあちゃんが