対馬で別れて
産婦人科で「ご妊娠しています」と言われた瞬間は、父親である裕太と別れたから、どうしてこんなときに妊娠したんだろうとおなかの子供をうっとおしく邪魔ものではないかと思った。いまこうしておなかをさすっていると、ぼんやりと私のお腹に新しい命の種が来てくれたことが嬉しくなった。なぜかうれしくなった。心の底からじんわりとうれしさが流れ出て来た。今この瞬間、私は一人ではないと実感した。
けれども、お腹をさすり続ける内に、もやもやとして不安が渦巻いてきた。そう、私はお腹の中の子どもを立派に育てることが出来るかという不安。
”親のない子にしてはいけない、絶対に。
”もしそうなれば、私と同じ不幸な境遇の子どもを作ってしまう。
”私と同じ目に遭わせるわけには行かない、絶対に。
時間が経っていた。ただただお腹をさすっている内に、時間が経っていることは分かっていた。何時だろうと思ってガラ携に手を伸ばし、二つ折りを開いたら、午後9時40分だった。そのとき「ぶーぶー」と鳴った。りょうこからかかっていた。
「もしもし、りょうこ?どうしてたの?」
「あ、ごめんごめん、携帯の電波が飛ばない下対馬の筒地区にいたから。で、裕太はどうなの?」
「えっ何も知らないの?意識不明のまま、今も中原病院に入院中よ」
「私は、夏子から『裕太が飲み過ぎて倒れて救急車呼んだから、中原病院に誰か行って!』って言われたから、恋人であるあんたにその連絡をしただけだけど?」
「ええっ夏子が関係しているの?」
「どう関係しているかは知らないけど、とにかく夏子からそんな電話をもらっていた」
「そう夏子がねえ。私は裕太とは3か月も会っていなかったのよ、それに私は裕太と別れたみたいになって福岡市内に転居したわ」
「ええ、福岡に。じゃあもう裕太とはなんの関係もないの?」
裕太と無関係だなんて、そんなはずはない。
現にお腹の子どもは裕太の子どもだ。
「とにかく、明日にでも中原病院に来て。病室は312号室だから」
「分かったわ、312号室ね」
【8月4日午前10時20分。中原病院312号室】
私は裕太が眠っているベッドの横のパイプ椅子に座っていた。ここに来てから20分が過ぎた。私はお腹の赤ちゃんのために、自分のお腹を右手でさすっていた。さすっているうちに、お腹の子どもを守ってあげたいという気持ちが強くなった。
しばらくすると、目も開けきれずに眠ったままの裕太の寝顔が愛しくなった。
そして、ベッドから出ている裕太の右手を探して出し、私は裕太の手を布団の中で握った。裕太は握り返すことはなかったが、私は少し力を入れて握り続けた。
ドアが開く音がしてりょうこが入ってきた。
「ああ、ごめん。まさか裕太がこんなことになっているとは思わなかったから」
「りょうこ、ありがとう、よく来てくれたわね」
「電話で聞いたけど、あなたたち別れたの?」
「いや、別れたわけじゃないけど、ちょっと嫌なことがあったから」
「ああ、そう?一時的に離れていたわけね」
「まあ、そんなとこね」
「ところで、どうしたの?裕太は。夏子と一緒だったの?」
「よく知らないけど、あの日夏子から『裕太が飲み過ぎて道で倒れた。救急車は私が呼んだ。中原病院に運ばれたから行ってあげて』って言われて切れたわ」
「だいたい、なんで夏子と裕太が一緒にいたの?」
「知らないわ」
「それに中原病院って言ったら、そんな飲み屋さんがあんまりないところがじゃない。どうして裕太がその付近にいたのかしら?」
「それも私は知らないわ。ただここは昔裕太が過ごした場所じゃないのかしら?」
そう言えば、裕太は小学校の頃、中原に住んでいて、淺生湾に浮かぶ釣船やカヤックをよく見ていたと話していた。それに、寂しくなったら城山にもよく上っていたと話していた。城山山頂から強き風に吹かれながら、その風で悲しみを癒やしていたとも聞いていた。
もしかしたら、裕太は一人で城山で悲しみの中でお酒を飲んでいたとか?
「それで、どっちにしても夏子に事情を聞かないと分からないからと思って、今日の午後ここに呼んでいるから」
「そう?」
私は思い出した。夏子の顔、次に酔った夏子が、裕太に絡んで行った醜悪な様子を思い出した。はだけたスカートで、酔ってフラフラしていた姿を思い出した。醜悪、醜悪。同性だからこそあんなに乱れた姿を醜悪と言える。あんなのでも男から見たら、『色っぽい』などと好意的に思うのかもしれない。
夏子のことではとびきり嫌な思い出があり、思い出したくなかった
それなのに、自然と脳裏に浮かんできた。嫌なこと、それは今から8か月前の忘年会でのことだった。
私、裕太、りょうこ、それに田丸夏子は、地元のバドミントンクラブに加入していた。その日は12月26日の日曜日で、昼には対抗試合をして汗をかき、その夜は厳原町内の居酒屋で忘年会をした。その日、対抗試合で勝ったこともあり、皆ことのほか酒量が増えていた。そして、試合中、裕太と夏子というペアの組合わせがあって、一クラス上のペアに勝ったものだから、その試合終了後、この二人は大喜びしていた。それだけでなく、みんなの見ている前で、夏子はエロっぽく裕太に抱きついた。
『はあーあ、何しているの?』
確かに同じチームだから、仲良く試合で勝った喜びを分かち合うのはいいけど、ハグまでするかよ、と私が一瞬のうちに頭に血が上った。けど、ハグしたかと思うと、すぐに離れて、二人は別々の行動し始めたから、私は嫌みの一つも言えなかった。
そういえば、この二人は高校時代に半年付き合ったとか言っていた。それなりにラブラブな時期もあったとか裕太は言っていたけど、別に何かを隠すでもなかったから、気にするほどはないと思っていたのだ。
昼間に抱きついた夏子は、夜の忘年会でも、いつの間にか裕太の隣の席に移動していた。 忘年会には30人くらい集まっていた。この二人は当初は端と端といういうくらいに離れていたのに。
私も夏子の隣の席に行き、夏子が裕太とどんな話しをするか聞き耳を立てた。
「ねえ、裕太。私たちって高校時代に付き合っていたじゃん、その頃はキッスしかしなかったけど、それって残念じゃなかった?」
「ええ、まあ。でもオレ、ユリと婚約しているから」
”よし、そうよ、ちゃんとそう答えるのよ”
私は、二人には気付かれていなかったから、いっそう裕太の今の言葉は嬉しかった。けど、夏子は裕太の手を包み込むように触っていた。
「ああ、まじめね。でもキッスの味って覚えている?あのとき裕太はさあ『今日のキッスはずっと忘れないよ』って言ってくれたじゃん」
「・・・」
「だから、結婚って牢獄って言うじゃん。だからさあ、最後に思い出、作っていいと思うけど」
『はあー何言っているの?』と声を上げそうになった。私が黙っていたのは、裕太が怒って席を立つか夏子に『いいかげんにしろ』って怒鳴るのが聞きたかったからだ。
『いうよ、きっと、裕太はいいかげんにしろっていうよ』と思って耳を澄ました。
「・・・」
「ねえ、だからこれ私のメアドだから」
と言いながら、メモ紙をなんと裕太の上着のポケットに押し込んでいて、裕太も黙っていた、なんと黙っていた。