対馬で別れて
慌ててバタバタになってしまい、溺れ始めた。「えええーーなんでうそでしょ」と呟いた。その状況はすぐに回復するだろうと思ったのに、焦っていたから、首が海水から出なくなり、「うわあわー」と海面から顔を出したり、また沈んだりを繰り返した。
「助けー・・」
私はもっと焦り、海面から顔を出せなくなって呼吸が苦しくなってきた。
こんなことで溺れてしまうのかと焦った。
「おい、おい動くなよ、つかまれ」
と声が聞こえた。裕太が来てくれて、私の首の辺りを腕を回してがっしりと捕まえてくれた。「おい、なにやっているんだ、ほら動くなって。救命胴衣着てるから、落ち着けば自然と浮くんだから、大丈夫だって」と言ってくれ、私はやっと落ち着いた。
こうして私は丸一日裕太とカヤックデートを楽しんだ。
エコツアーの事務室に戻ってきたときは、私は右手首にはめた白いベビーGを見たら午後4時半になっていた。
裕太は
「ちょっと危ないことがあったけど、今日は楽しかったです。また一緒に来てもらえますか?」と誘ってくれた。
帰り際、裕太のクルマが先にエコツアーの駐車場から出て行き、私はそのクルマに手を振りながら、『今日は楽しかったよ、それに頼もしかった。あれはちょっと足がつっただけだけど』と呟いた。私は、このまま順調に裕太と付き合っていけそうな気がしていた。
【8月3日午前9時44分。中原病院312号室】
目の前のベッドに横たわっている裕太は、目を瞑り呼吸だけしていた。
私はなかなか来ない担当医にイラついた。医者の説明はどうなんだろう。「残念ですがかなり厳しいです」と淡々と言うのか、それとも「2、3日ここで休めば元通り生活できます」と言ってくれるのだろうか。
ドアが開く音がして入ってきたのは、やっと研修を終えたばかりらしい若い男性のドクターだった。
「担当医の望月といいます。小林さんの奥様ですか?」
「奥さん?いえ、ちょっとお付き合いしているだけの者ですが」
「小林さんの状態は簡単ではありません。脳内出血が原因で意識不明です。それに、左耳の上部に打撲痕と出血痕があります。打撲痕の大きさは直径5センチ。CT映像によると脳内の出血痕は直径約3.5センチあります。そして、3.5センチの出血痕は陳旧性と言って古いものか今回で来たものか分かりません。」
「えっ何ですって?意識がいつ戻るか分からない?脳に外傷ですか?誰かから殴られたってこと?」
「それはちょっと・・・?」
陳旧性の脳内出血の痕跡というのであれば、もしかしたらあのことかもしれない。
私が裕太と付き合い始めてちょうど1年くらい経ったとき、裕太が倒れたことがあったんだ。
「それで、先生、裕太が倒れた原因はなんですか?自分で倒れたんじゃなくて、他人から殴られたってことですか?」
「いや、医者は、今の症状にどう対処するかが主な仕事ですから。ですから脳出血の原因についてははっきり言えないんですけどね」
「そうは言っても、他人から殴られた可能性はあるってことですか?」
「こちらとしては、原因について最終的なことは言えないんで」
自分の責任に触れるようなことになると、曖昧な言い方をした上、「ほかの回診がありますから」と言って出て行った。
実は、裕太とのことでは思い出したくないことがあった。
裕太と二人っきりで取り残された病室で、私は下腹部をさすりながら布団に埋もれている裕太の手を探した。右手首に触るとギクリとした。そう、縦に切った切り傷を私の右手の指先が見付けたからだ。
3年前の夏、3度目のカヤックの最中に、裕太が、手首のリストバンドを外すのを見た。すると、左手首に3カ所、長さ4センチくらいのナイフで切ったような切り傷があった。私は「あっ」と声を出してしまった。
「これって?もしかしたら?」
「リスカだよ、自分で切ったものだ」
裕太はうつむいて、顔が青白く見えた。
その帰りがけの裕太の車の中で、ふたたびリスカの話になった。
私もリスカをしたことがあった。中学時代だった。ムカムカ、イライラとしていて、心の中に黒くて重たい汚物のようなエネルギーが溜まっていた。そのエネルギーのやり場に困って仕方がなかった。
友達は私に「ユリ、リスカって知っている?カッターナイフで手首をで切るんだよ。そしたらさあ、一瞬気が遠くなってスカッとするんだから」と私に言ったことがあった。 私はその言葉につられて、汚物のような心のエネルギーを解放するため、2度3度と手首をカッターナイフで切ったことがあった。スーとした。禁止されていることを犯すハラハラ感もあった。それにもしリスカの跡つまり手首の切り傷をだれかに見られて、その誰かがとびきり優しい人だったら、私の愚痴を心ゆくまで聞いてくれるかもしれないと思っていた。
「私もしたことあるから、分かるよ」
裕太には、人に聞いてもらいたいくて仕方が無いことがあるに違いない。でも何もしゃべろうとしない。
「リスカ、リスカ、リスカねえ」
「リスカ、リスカ、リスカねえ」
とちょっと冷やかすように言った。
「そうなに言わなくても・・・」
「でももう卒業したんでしょ」
「・・・」
「あれーー完全には卒業していない?」
「今度、ゆっくり話すから」
ともっともっと暗い顔になってから、やっと言った。
私が下りる駐車場に入って行き、車は停止した。私は下りるだけだった。
裕太はじっと前を見ていた。なにか言えばいいのに何かが裕太の口を止めていた。私はリスカをまだやっている裕太が哀れだった。でも、同時に、それ以上関わり合いになりたくないという気もしていた。沈黙沈黙。
この沈黙の意味は、裕太の寂しさと甘えの表れだろう。
私は裕太の顔を横からじっと見た。そして、私は口を横にして、悪戯っぽく笑いながら、顔を寄せた。私の右手をシートの上の裕太の左手に重ね、続けて裕太の唇に私の唇を軽く重ねた。軽すぎて唇の感触はなかった。でもキッスしていること自体にこころが震えた。
「じゃあ、またね。カヤックって楽しいね」
【8月3日午後7時20分。厳原町民宿「パゲルマ」】
りょうこと連絡が取れないまま、意識を戻すこともなく寝たままの裕太を置いて、私はパゲルマという厳原町内の民宿に入った。柳の並木沿いの宿だった。六畳一間の部屋には古い和風のテーブルがあり、そこに私は「ガラ携」を置いてジッと見つめた。テレビも着けずに、なにもしないでいると、私は次第に落ち着はじめた。
昨日まで私は福岡市内にいて、さらに婦人科で私が妊娠しているかどうかを見てもらっていた。
「3か月ですね、おめでとうございます」
と言われて、自然と私は自分のお腹を右手でさすった。
そして今、パゲルマの一室でお腹を右手でさすった。私のお腹に子どもが宿っている。その形は小さな幼魚かオタマジャクシのようなものであり、きっと人間の子どもとはいえないだろう。でも確かにこのお腹の中に、何かが宿っているような気がする。