後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】
初めて芳華を抱いた夜、法明の手はあんなにも熱く、その熱は芳華ですらも飲み込んで燃え上がらせた。しかし、今、これが同じ男のものかとは信じられないほど、彼の手は冷え切っている。
本当の意味での二人の初夜は市井のあの小さな家で迎えた。あの夜、法明は芳華を烈しく情熱的に求めた。あのときはあんなに熱かった男の手が今は別人のようだ。最早、彼の心はこの手のように冷え切ってしまったのか。
「騙すつもりはなかった」
広い寝室はまるで深い水底(みなそこ)を漂っているかのような錯覚を与える。あの懐かしい二人の家よりも数倍は広い寝室には贅を凝らした黒檀の卓や飾り棚が配置され、奥に大人でもゆうに数人は眠れそうなほど大きくて豪奢な天蓋付きの寝台が置かれている。
芳華がここに来たのはこれが初めてではない。婚礼を挙げたその夜、初夜を過ごすために一度来ているが、その夜、皇帝は婚礼にも寝所にもついに現れなかった。本来なら、二人の初夜はあのときになるはずだった。
卓の上には唐草模様の青磁の壺が置いてあった。大ぶりの花は牡丹だろうか。宮殿の庭園には大きな温室もあり、常に四季折々の様々な花が咲き乱れている。毎朝、お花係と呼ばれる専任の宮女たちがその中から花を選び、皇帝や後宮の妃たちに配るのだ。
まだ牡丹など咲いていないはずのこの季節に、皇帝の寝所には両手で持っても余るほどの緋牡丹が幾つも活けられ鮮やかな彩りを添えている。この国の皇帝がどれほどの力を持つかを誇示しているかのようだ。
芳華が鮮やかな牡丹をぼんやりと眺めていると、間近で声がした。
「そなたは私の言うことを聞いているのか?」
脚音もなく近づいてきた男を、芳華は虚ろなまなざしで見つめた。皇帝もはやり純白の夜着姿だ。法明はやはり、こんな姿でも美しい。いや、余計な飾りのない簡素な佇まいの方が彼本来の美貌を余計に際立たせる。
「郁宰相に私たちのことを知られているのをつい最近、知ったのだ。そなたがあの日、連行されたのは私の命ではない」
?あの日?というのが数日前、町中で郁家の私兵に取り囲まれた出来事を指しているのは判る。恐らく、あれは皇帝自らの命ではなく、父文昭の一存だったに相違ない。
皇帝はそれを言いたいのだろうが、この期に及んでは些末なことだ。皇帝が法明であるという事実、大好きな男に最初から騙されていたということそのものが最も彼女に打撃を与えたのだから。
芳華は無言だった。皇帝は堪りかねたように彼女を見つめた。
「頼む、私の話だけでも聞いてくれ」
「―お聞きしております、陛下」
法明の顔が絶望の色に染まった。
「止してくれ、私たちの間でそんな呼び方は止めてくれ。これまでのように法明と呼んで欲しい」
芳華はゆっくりと首を振った。
「文法明さまは、もう亡くなりました。あなたが皇帝陛下だと知った時、私の中で良人は亡くなったのです」
それは真実だった。文法明という男は実在しない人物だった。彼女が法明だと信じていた男は英鵬広という、この国の皇帝だった。
「ともかく、私は郁宰相が私たちのことを知っていると迂闊にも気づかなかった」
「陛下がそれをお知りになったのは、いつですか?」
やっと芳華が口を開いたので、法明は少しだけホッとしたようだ。
「去年の十一の月くらいだが」
芳華がキッと法明を見据えた。
「何故、そのときにすぐ私に教えて下さらなかったのですか!?」
法明の黒い瞳が揺れた。
「あの頃はそなたの懐妊が判ったばかりで、言うべきときではなかった。大切な時期に告げて、そなたにも腹の子にも何かあったら一大事だ」
「陛下にとって大切なのは私ではなく、子どもの方だったのではありませんか?」
「何を言う、私にとってそなたは宝だと申したではないか。子は幾人でも儲けられるが、そなたは一人しかいない。私にとって優先すべきなのは、そなただ」
今こそ、芳華は理解し得た。何故、後宮を出た後、父が芳華のゆく方を追及しなかったのか。恐らく早い段階で父は芳華の居所を突き止めていたのだ。更に、娘が一緒に暮らしている男―良人と名乗っている人物がそも誰なのかも知っていた。
だから、父はわざと自分たちを放っておいた。何もせずとも、芳華は父の決めた相手を自分の運命の男だと信じて愛したのだ。その上、目論見どおり、皇帝の御子を懐妊した。これまでよくぞ探索されなかったものだと思っていたけれど、それは芳華が裏事情を知らないだけだった。
すべては父の描いた筋書きどおりに運んだ。後宮を出て自分の人生を生きていると信じ込んでいたのに、その実、父の手のひらで踊らされていたにすぎない。
法明との出逢いも恐らくは仕組まれたものだったに違いない。皇帝という身分を隠し近づいてきて誘惑した。誘惑された世間知らずの娘はまんまと騙され、皇帝に恋をした。自分は男に操られているとも知らず、その男の腕に抱かれ、あられもない声を上げた。
そう考えただけで、あまりの悔しさと屈辱で身体が熱くなった。
彼と出逢った時、矢を射かけられたところを助けて貰った。あの時、生命を狙われていると彼は言ったけれど、あれも今となっては本当だったのかどうか。百歩譲って本当に狙われていたのだとしても、父が常に私兵を近くに潜ませていただろうから、道理で以後は二度と狙われることがなかったわけだ。
「最初から父と組んでいたのですか? 陛下は計画的に私に近づいたのですね」
こんな卑劣な男の前で泣くまいと思っても、涙声になる。法明が歯を食いしばるようにして首を振った。
「それは違う! 誓って言うが、私たちの出逢いは仕組まれたものではない。私はそなたが郁宰相の娘だとは最初、知らなかった。そなたから素性を打ち明けられたときには、あまりの運命の悪戯に愕いたものだ。芳華、そなたと出逢ってすぐ、私はそなたに惹かれた。そなたが宰相の娘、既に私の妃となっている身だとは知らずに、そなたを好きになったのだよ」
法明の言い分を信じれば、その偶然の出逢いを父がまんまと利用したことになる。芳華は真実を見極めようとするかのように、法明の瞳を見つめた。
彼の双眸が淡い紫水晶に染まっている。恐らく、嘘ではないのだろう。確かにあの時―芳華が名乗った時、法明は酷く愕いていた。だから、彼の話に嘘はない。が、出逢いはほんの偶然であったとしても、そこから先はすべて嘘で固められたものではないか。
そう思った瞬間、心の中で問いかける声があった。
―本当にそうなの? 彼を愛したことも、二人で過ごした幸せな日々もすべてが嘘だったの?
そうではない。たとえ法明が誰であろうと、彼を心から愛したのは事実だし、法明もまた真摯な愛情を芳華に注いでくれた。
だが、芳華はその真実から敢えて眼を背けた。自分はこの男にも父にも騙されたのだ、良いように利用されたのだと自分に言い聞かせた。
「もう、終わりです。陛下」
芳華はうつむき唇を噛みしめた。
法明が振り絞るように叫んだ。
「そなたが私に抱かれて恍惚となっていたのは、ついこの間のことではないか。そんなに私が皇帝だと嫌なのか?」
その科白は芳華の心を烈しく抉った。芳華は涙の滲んだ瞳で法明を睨みつけた。
作品名:後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】 作家名:東 めぐみ