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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】

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 穏やかな声音に励まされるようにゆっくりと身を起こす。やはり、両手は膨らんだ腹を守るように隠すようにその場所にあったが、そんなことで大きくせり出した腹を隠せるはずもなかった。
 そこで、芳華はハッとした。何故、皇帝陛下が懐妊のことを知っているの―!?
 弾かれたように面を上げたその先に、あの男がいた。逢いたくて逢いたくて、焦がれるほどに逢いたいと願った良人法明が。
 どうして? 何故、彼がここにいるの!
 その刹那、心に一挙に溢れ出した感情をどのように表現すれば良いのだろう。落胆、失望、怒りがない交ぜになった複雑な感情が今、彼女の中でせめぎ合う。
 いや、それよりももっと厄介なのは、裏切られたことへの怒りよりも、この男に逢えたという歓びが勝っていることだった。
「どうして、あなたがここにいるの?」
 芳華の眼に涙が溢れた。
「済まない。こんな形で芳華と後宮で逢うことになるとは考えてもみなかった」
 皇帝の盛装をした法明が言う。美男の彼には様になりすぎるほど似合っている。こうして見ると、彼はやはりただの小間物売りの若者なんかじゃない。それは単に豪奢な衣装に身を包んでいるからだけではなかった。生まれながらの皇帝であり、辺りを圧するほどの存在感がある。だけど―。
 嘘、私の大好きな男は皇帝なんかじゃない。芳華は心の中でこの酷すぎる現実を懸命に否定した。
「法明が、あなたが皇帝陛下だなんて考えてもみなかったのに」
 迂闊だった。生粋の操国人には珍しい紫の瞳、生母が栄の生まれだという話、更に彼の母が泰山木を愛した話。どれもが現皇帝にまつわる逸話そのものなのに、何故、自分はそれに気づかなかったのか。
 ―気づくはずがない。文法明という男はある日突然、芳華の前に現れた。物言いも粗雑で、それでも生まれ持った品の良さは隠せなかったが、かといって、それだけで彼が皇帝と同一人物だなんて誰も想像するはずがない。
「あなたは私を騙したのね。これ以上はないというくらい残酷な形で」
 皇帝に対して使う言葉遣いではないのは判っている。が、この期に及んでまだ芳華は法明を皇帝その人だという現実を受け容れきれないでいた。
 心が、悲鳴を上げている。私たちが過ごしたあの蜜月は何だったの? 二人だけの結婚式、粗末な家で営んだ甘い蜜月の日々。私はずっと、あなたに騙されていたのね。
 私はあなたと偶然めぐり逢い、心から愛した男だと思っていたのに、現実は違った。あなたは皇帝で、元から私の決められた相手だった。場所は宮殿の後宮と市井のあばら屋で全然違っていたけれど、違っていたのは場所だけで、私は父の決めた男と決められた道を歩んでいるだけだった。 
 だから、父も凜鈴も芳華の懐妊について特に愕きもしなかったのだ。父はずっと皇帝の外戚になりたがっていた。娘を後宮に入れ、娘の産んだ王子が次の皇帝になるのを切望していたのだ。自分が権力を握るために。
 すべては父の思い描いたとおりになった、馬鹿な自分は後宮をまんまと抜け出して広い世界で新しい人生を生きていると思っていたのに、現実は皇帝の慰み者になり、父の望みどおり、皇帝の御子をその身に宿した。
「酷い。皆で私を騙して」
 いちばん辛いのは法明が私を騙したこと。心から愛する男だと信じていたのに、そんな彼が皇帝だった。なのに、私はまだ彼を嫌いになれない。なんて、馬鹿な私。
 意識が遠ざかってゆく。涙を流しながら、芳華は意識を手放した。それはまるで、白い花が心ない風に散らされてゆくようだった。懐妊してから食も細くなっていた芳華は一回り痩せている。
 その儚い身体が床に崩れ落ちる寸前、逞しい腕が芳華のか細い身体を抱き止めた。
「芳華、済まぬ、許してくれ。どうやったら、私はそなたの哀しみを癒してやれるのだろう。教えてくれ」
 泣いているのか、声がわずかに震えている。あの声は法明、それとも、皇帝陛下なの―。
 芳華の意識は大好きな声を聞きながら、急速に闇に飲み込まれていった。

 後宮に戻って三日後、芳華に皇帝から寝所に伺候するようにとの沙汰があった。深紅の薔薇の花びらを浮かべた浴槽に身を沈め、芳華は眼を瞑った。そうでもしないと、涙が溢れてきそうだったから。
 今まで法明は彼女の大好きな男で、良人だった。だが、芳華の愛した男はもういない。どこにも。この世のどこを探しても文法明という男はいないのだ。自分がこれから抱かれようとしている男はこの世で最高の権力を持つ男、皇帝であった。
 凜鈴に身体を磨かれた後は、やはり薔薇の香油をふんだんに膚にすり込まれる。その上から白い夜着を着せかけられ、同色の帯は前で結んで長く垂らす。洗い上げたばかりの長い黒髪は結わずに横に流して一つに纏めた。
 夜伽なので、化粧はあまり濃くせずに、淡く仕上げ、紅だけは椿のような鮮烈な紅を乗せる。全体的におとなしめの装いで唇だけが鮮やかに染まっている様は何かかえって淫猥に見え、芳華は鏡に映る自分の姿から顔を背けた。
 支度が終わると、女官や宮女たちに囲まれて、寝所までの長い廊下を辿る。庭に面した廊は吹き抜けになっており、凍てついた真冬の夜気が容赦なく襲ってくる。薄い夜着一枚だけの芳華はかすかに身を震わせた。
 寒い、身体だけでなく、心が寒い。宮女が雪洞で足許を照らし先導する。この先に皇帝が後宮を訪れたときの寝所があるのだ。廊から見上げた広大な庭は宵闇の底に沈んでいたが、紫紺の空には寒々とした眉月が危うげに浮かんでいた。
 青褪めた月は随分と近く見える。細い頼りなげな月が泣いているように見えたのは、芳華の心のせいだったのかもしれない。吹き抜けの回廊が終わると、いよいよ皇帝の寝所になる。宮女が重厚な両開きの扉の前でとまり、今宵、初めて皇帝に召される貴妃に対して恭しく頭を下げた。
 女官の先導はここまでとなる。彼女たちは芳華一人を残し、去っていった。本来は何人かは扉の前で寝ずの番をするのが通例であるが、今宵は皇帝からの厳命で、宦官すら不寝番をしていない。
 特に妃が初めて皇帝の閨に侍る夜、つまり初夜の場合は女官長自らが不寝番を務めることになっている。それは妃が無事に初夜を済ませ皇帝の所有に帰したことを見届けるための後宮の習わしでもあった。
 だが、今夜は初夜といっても、既に郁貴妃に皇帝のお手が付いているのは周知の事実である。ゆえに、皇帝自らの強い意向もあり、初夜ではあるが例外的に不寝番は置かれなかった。
 複雑な文様が浮き彫りにされた扉が開き、芳華は皇帝の寝所に脚を踏み入れた。ここまで芳華を案内してきた女たちが深々と腰を折る。やがて扉はまた静かに閉まった。
 芳華は俄に心細くなり、固く閉まった扉を所在なげに見つめた。小さく首を振り、その場に拝跪して、皇帝に対する敬意を示す最高礼の形を取った。
 法明はまだ来てないのだろうか。そんなことを考えたまさにその時、頭上から懐かしい声が響く。
「私たちの間でそのような形式張った礼は要らない」
 大きな手が差し出され、芳華の小さな手を握った。芳華は皇帝に手を取られ、立ち上がる。しんと冷たい手の感触に、芳華は自分の身体まで冷えてゆくように思った。