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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】

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「お嬢さま、私は宰相閣下にお仕えする私兵隊長の徐と申します。本日、旦那さまのご命令により、お嬢さまをお屋敷にお連れするようにと承って参りました。私どももお嬢さまに手荒なことはしたくありません。どうぞ、このまま速やかに我らとお屋敷にお戻り下さい」
 態度は主人の娘に対して慇懃だったけれど、有無を言わせぬ響きがある。それは他ならぬ文昭の命令が絶対であることを示していた。
 だが、ここで大人しく帰ることはできない。芳華は傍らの法明を縋るように見つめた。
「法明、私は帰りたくない。ずっと、あなたの側にいたいの。あなたの側であなたの子どもを産んで育てたい」
 しかし―。最初に私兵たちが現れたときは敵意を剥き出しにしていた法明は今、何故かその敵意を喪失してしまったようだった。或いは天下の宰相郁文昭の名を持ち出され、怖じ気づいてしまったのか。
「さあ、お嬢さま」
 徐隊長が立ち上がり、芳華に近づいた。
「いやっ、私は帰らない、法明と一緒にいるのよ、法明、法明、助けて」
 が、芳華は直に数人の兵士に囲まれた。徐隊長と若い別の兵士が芳華の両脇からそれぞれ腕を掴む。
「放して! 法明っ、法明ー」
 涙混じりの絶叫が響き渡る。行き交う人々が何事かと遠巻きにちらちらと様子を窺っているのが判った。けれど、法明は微動だにしない。
 何故なの、法明、どうして、私を助けてくれないの? 芳華は哀しい想いで法明を見つめた。それとも、彼は本当に怖くなってしまったのだろうか。天下の宰相を相手にして、ただの小間物売りが敵うわけがない。だから、早々に諦めて芳華を見限った?
 絶望で眼の前が白くなる。涙の幕で大好きな法明の綺麗な顔がぼやけて見えなくなる。
「法明ーっ」
 それでも芳華は手を伸ばした。彼がこの手を取ってくれることを、彼が自分を奪って共に逃げてくれることを最後まで望んでいた。
 けれど、法明は魂を抜き取られてしまったかのように茫然とその場に立ち尽くしているだけだ。
―許してくれ。芳華。
 連れ去られる間際、法明の唇が戦慄いたのを芳華は知らない。そして、それが、芳華が文法明を見た最後になった。

 その翌日、芳華の身柄は宰相郁文昭の屋敷から輿で皇帝の住まう宮殿に送り届けられた。が、それは貴妃という高貴な女人の宮廷入りというよりは、さながら虜囚の護送かと思ってしまうほどに物々しい武装した兵たちで周囲を囲まれていた。
 芳華が一度後宮から脱走した経緯を考えれば、文昭がそこまで気を遣うのも道理である。入内してまもない貴妃が後宮から失踪などと公にはできず、郁貴妃は慣れない宮廷生活で体調を崩して実家で静養と発表されていた。
 ここで再び芳華がいなくなりでもしたら、一大事である。文昭は今度は娘に一切甘い顔を見せず、泣いて懇願する芳華には取り合わず、連れ帰られた芳華を屋敷の一室に軟禁した。その翌日には立派な輿を用意して、それに娘を乗せてさっさと後宮に送り返した。
 後宮に戻ったその日の中に、今度は早くも皇帝のお渡りがあった。考えれば、後宮を逃れたのはもう九ヶ月も前のことであった。あの夜、芳華のつま弾く竪琴を耳に留めた皇帝が芳華に俄に興味を示し、逢いたいと言い出した。そのために、芳華は焦って後宮を逃げ出したのだ。
 思えば、貴妃という立場にありながら、良人たる皇帝を振り切って脱走した芳華の罪は重い。しかも、市井で暮らしている間、芳華は他の男と婚姻し、子までなした。芳華の今の姿では懐妊中だとすぐに判る。
 実のところ、芳華が最も怖れたのはそれだった。皇帝の妃でありながら、他の男と関係し妊娠した。父がその事実を知れば、無理にでも堕胎させられ、その上で後宮に送り返されるのだろうと怯えていた。
 法明との間の子どもを奪われたら、自分はもう生きてはゆけない。最悪の場合、自らの生命を盾に父に刃向かうつもりだったが、父は堕胎させるどころか、かえって身重の芳華の身体には神経質すぎるくらい気を遣っているようで、そこに何か言葉にはできない不自然さを感じないわけにはゆかなかった。
 市井で暮らしていた頃からは考えられないような絹の上衣や下裳も後宮ではごく当たり前のもの。操では男性は袍、女性は深衣(しんい)と呼ばれる衣装を身につける。深衣は上衣と下裳に分かれたワンピースのようなものだ。それに帯を二本以上数本巻いて、玉佩を垂らす。
 もちろん、身分の上下により纏う深衣の素材はまちまちだが、基本はこの格好だ。
 後宮ではまた嬉しい再会もあるにはあった。芳華の姿を見た侍女の凜鈴は涙を零しながら彼女を抱きしめた。
「お嬢さま、ご無事で、ようございました」
「ごめんね、凜鈴。私がいなくなって、あなたは罰を受けたりはしなかった?」
 小声で訊ねると、凜鈴は涙を拭いつつ首を振る。
「そのようなことは一切ございませんでした」
 それにしても不思議なのは、芳華の大きくなったお腹を見て、凜鈴もまた愕いた風はなかった。まるで、芳華が妊娠していることを誰もが予め知っていたような態度にますます芳華は疑念を深めた。
 でも、何故、父や凜鈴が自分の妊娠を知っていたのか。それは幾ら考えても、芳華には判らなかった。
 凜鈴の介添えで湯浴みをし、きらびやかな上衣と下裳に着替える。これから皇帝のお渡りがあるというので、凜鈴はいつもにもまして丹念に髪を梳(くしけず)り、化粧を施した。艶やかな黒髪は複雑な形に結い上げ、様々な高価な玉を惜しげもなく使った簪を幾本も挿す。
 光沢のある薄紅の衣服は栄の国からの渡来品だとかで、布地に小粒の真珠が散りばめられている。身に纏った芳華が動く度に、真珠がきらきらと煌めき、さながら芳華自身が光り輝いているような美しさだ。
 だが、幾ら美しく装っても、そろそろ七ヶ月に入ろうとする腹部はごまかせない。この姿を見た皇帝がどれだけ激怒するか想像しただけで怖ろしい。下手をすれば、その場で逆鱗に触れて手打ちにされるかもしれない。
 そのときはせめて身二つに―出産まで待ってくれるように皇帝の慈悲に縋らなければならない。牢屋暮らしでも構わないから、出産が終わった後、この身はどうなっても良いから、せめて腹の子だけは助けて欲しい、と。
 芳華は悲愴な覚悟で居室に脚を踏み入れた。まもなく皇帝がやってくるとの先触れがあった。彼女はその場に跪き、両手を胸の前で組み合わせ深く頭を垂れた。この国では龍の化身とされる皇帝は尊い。たとえ皇帝の生母であろうと、皇帝を迎え、見送る際に跪拝を取らなければならない。
 室の扉が静かに開き、ひそやかな脚音が聞こえた。跪いた芳華はますます頭を低くした。無意識の中に組み合わせた両手で腹部を庇うように隠す。今はまだ判らないだろうが、立ち上がってしまえば、懐妊していることは判ってしまう。
「芳華」
 深い声が頭上から降りてきて、芳華は緊張のあまり、自分が震えているのに気づいた。小さな溜息の次に、改めて声がかけられる。
「郁貴妃、立つが良い」
 その時初めて、芳華は違和感を感じた。皇帝の声にどこか聞き憶えがあるような気がしてならない。
「芳華、そのような体勢は腹の子にも良くない、立ちなさい」