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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】

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 黙り込んだ娘を、文昭は眼を細めて見つめた。以前はまだ子ども子どもしたところのあった娘が何と美しい大人の女性に成長したことか。この娘は間違いなく若き皇帝に愛されて花ひらいた。さながら蝶がさなぎから羽化するように。
「あなたより少し人生を長く生きた者としてご意見を申し上げるなら、人の心は厄介なものです。貴妃さま、男女の間に難しきことは無用ですぞ、始まりがどうであろうが、結果として、あなたは陛下を一人の男としてお慕いしたのでしょう。それならば、素直におなりになるべきです。人生は長いようで短い。自分の気持ちに素直に生きなければ、後になって後悔することになる」
―俺はいつか心から愛せる女とめぐり逢えたら、泰山木の花を象った簪を贈りたいと思っていたんだ。今までは到底、そんな女とめぐり逢えるとは思えなかったけど、こうして芳華、お前に出逢えた。今の俺にはまだそんな高価な簪を贈ることはできないが、いずれ、時機が来れば芳華に贈るつもりだ。
 ―泰山木を栄国の言葉に音訳すると、?マグノリア?というそうだ―
 法明が求婚の言葉としてくれた科白だ。
 想いに沈む芳華を文昭は慈愛に満ちた眼で見つめた。それは娘を政略の具に使った権力欲に囚われた宰相ではなく、一人の娘の幸せを願う父親の顔だ。
「私は貴妃さまに老いてから後悔するような人生を送って頂きたくはありません。皇太子さまのご生母や皇后になる前に、一人の女人として幸せになって下され。それが父の願いです」
 文昭が言い終えたのと凜鈴が遠慮がちに声をかけてきたのはほぼ時を同じくしていた。
「貴妃さま、皇帝陛下より贈り物が届いております」
 ほどなく、女官の先導で宮女二人が大きな竪琴を運び込んできた。
「おお、これは」
 文昭が即座に立ち上がり、竪琴に近寄った。
「見事なものですぞ、恐らくは栄国で作られたものでしょう」
 竪琴は銀色に輝く逸品だった。芳華はそっとつま弾いてみる。たちまち室に得も言われぬ音色が響き渡った。
「その音色は私どもではなく、まずは陛下にお聴かせするべきでしょう。私はこれでお暇致しますゆえ、貴妃さまはこれより陛下にお礼のお文でもお書きなさいませ」
 文昭は父親らしい口調で言うと、立ち上がった。芳華も立ち上がり、入り口まで父を見送った。
 父が帰った後、芳華は久しぶりに竪琴をかき鳴らしながら、一人、考え込んだ。法明はまだ自分を必要としてくれているのだろうか。意地っ張りで、なかなか好きと言えないこんな自分を愛してくれている?
 彼女は今朝の出来事を思い出した。荒々しく身重の自分を抱いた法明のすべてを思い返してみる。仕種の一つ一つは荒々しく激情的なのに、芳華を抱きしめる腕は優しく温かだった。
 父の言うように、自分は法明ともう一度、話し合う必要があるのかもしれない。一人の男の愛を多くの女たちと競い合うのはいやだけれど、法明を永遠に失って後悔するような生き方はもっといやだ。
 その日の夕刻、芳華は皇帝に宛てて一通の書状を書いた。その手紙は宦官によって直ちに執務室で政務を執っている皇帝の許に届けられた。

 月夜に嫋々とした音色が響き渡る。そのたおやかな調べは春の澄み渡った夜気に滲むように溶けてゆく。
 手紙を受け取った法明はその夜の中に後宮にやってきた。もちろん、芳華に逢うためだ。今、彼女の居室にいる皇帝は白い夜着姿であり、すっかり寛いだ様子で愛妃の奏でる竪琴の音色に耳を傾けている。
 その傍らでやはり夜着一枚の芳華は真剣な面持ちで竪琴を弾いていた。
「やっと芳華のつま弾く竪琴の音色を聞くことができた。思えば、随分と長い時間がかかったものだな」
 一曲弾き終えた彼女に手を叩いて賞賛を示し、法明が感慨深げに言った。
「それにしても愕いたぞ。お前が書いたあの手紙、絶対に本人が書いたとは信じられない。誰かに代筆させたんだろう」
 ここからは、いつもの彼に戻っている。芳華は首を振った。
「代筆なんかさせてません。あれは正真正銘、私の書いたものです」
「確かにな、あの見事な手蹟は見憶えがある。俺はお前が私塾で子どもたちにお手本を書いていたのを何度も見ているから、判る。だがな」
 法明は唸った。芳華から彼に届けられた手紙には、このようなことが書いてあった。

 愚かな私は、陛下のお気持ちを誤解していたようでございます。今はただ陛下のお顔を見たくて堪りませぬ。見事な竪琴を頂いたお礼も申し上げたく、是非、今宵はこちらにお越し下さいませ。陛下のお越しを心よりお待ち申し上げております。
                芳華

 これで皇帝の機嫌はすぐに直った。彼はいまだに意地っ張りの芳華が書いたとは信じられずにいる。
「お前にあんな殊勝な可愛いことが言えるとは思わなかった」
「陛下、それって褒められてる気がしないんですけど」
 恨めしげに言うのに、法明は声を立てて笑った。
「いや、それにしても見事な演奏だったぞ」
「恥ずかしいです。長い間弾いていなかったから、少し練習しただけで聞いて頂いたのです。到底、陛下にお聞かせするような出来ではないと思いますが、どうしても今夜、聞いて頂きたくて」
 法明がプッと吹き出した。
「お前なぁ、いきなり態度が変わりすぎ。何か悪いものでも食べたか?」
 大真面目に法明が言うので、芳華はむくれた。
「父に言われたのです。陛下をお慕いしているなら、もっと素直になれと」
 言ってしまってから、?あ?と小さく声を上げた。
「おい、芳華。今、何て言った? 俺のことを慕っていると言ったか?」
 芳華は頬を染めた。
「知りません、ちゃんと聞こえたのに、わざと私に言わせたいのですね」
「当たり前だろうが。素直じゃないお子さまがやっと本音を口にしたんだ。百回でも俺は聞きたいね」
 もう一度言ってくれ。耳許で吐息混じりに囁かれ、芳華はくすぐったくて身を捩った。
「芳華は陛下をお慕いしております」
 今度は法明の耳許で囁くと、法明は露骨に相好を崩した。
「今の曲は何ていうんだ? これでも大抵の曲は知っているつもりだが、聞いたことがなかった」
 当代きっての笛の奏者といわれている彼である。確かに音楽についての造詣は深いに違いない。
 芳華は淀みなく応えた。
「想夫恋と申します、陛下」
「想夫恋?」
 これは自分が即興で作った恋の歌なのだと簡単に説明する。
「恋の歌?」
「はい、離れて暮らす良人を新婚の妻が恋うる歌ですわ」
 法明が芳華を引き寄せた。法明の逞しい胸に身体を預けると、彼の物問いたげなまなざしと遭遇した。
「俺はいつもお前のこんなに近くにいるのに?」
 芳華は微笑んだ。
「私はずっと愚かな大人になりきれない子どもでした。何が本当に大切で、誰がかけがえのない存在かに気づいていながら、気づかないふりをしていたのです。私はずっと陛下のお側にいたい」
 そこで芳華は囁き声になった。
「あなたが皇帝でも、ただの男でも、私は良いの。あなたが私の側にいてくれるだけで、私は生きてゆけるし幸せだから」
 法明が芳華を抱きしめた。