後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】
芳華はもう一度、手のひらに乗せた簪に見入った。大振りの花びらは白蝶貝で拵えているようだ。花心に埋め込まれているのは水晶。彼女は無意識の中にその簪を手に握りしめていた。
今や芳華は法明の心がますます判らなくなりつつあった。
その日の午後、珍しい客があった。
「お父さま」
今回の一件では、まんまと父の計略に乗せられたという腹立たしい想いは今も消えない。しかし、それとは別にやはり父はこの世にたった一人しかいない肉親だ。
芳華が立ち上がって出迎えるのを文昭は手で制した。
「そのまま、そのまま。お座りになっていて下さい」
たとえ娘とはいえ、皇帝の妃となったからには文昭は臣下の礼を取る。父は居室に入るなり、丁重に頭を下げた。
「貴妃さまにはお顔の色も良きようで、何よりですな」
国を挙げての神事で芳華の産む御子が?皇太子?だとお告げが出て以来、文昭は上機嫌だ。もう早々と皇太子の外祖父になったつもりでいるらしい。
「お腹の皇子さまもお健やかでいらせられますか?」
今も嬉々とした様子で、大きくなった娘の腹を眺めている。芳華は声を低めた。
「お父さま、幾ら占いのことがあるからといって、そのようにあからさまにおっしゃるのは止めて下さい。まだ本当に皇子と決まったわけではないのですから。生まれてくるまでは赤児の性別など判りません」
文昭は眉をしかめた。
「何を仰せですか。大神殿の大神官の神力を侮ってはなりませんぞ。かつてこの帝国が始まって以来、あの神事での大神官のお告げが外れたことは一度としてないのですからな」
「それは存じておりますが」
芳華が不承不承頷くのを見、文昭は更に思いがけぬことを口にした。
「話は変わりますが、近頃、皇帝陛下とのおん仲はいかがですか?」
「それは、どういうことでしょう?」
丸い卓を挟んで向かい合って座る文昭はわずかに眼を眇めた。
「親子ですから、この際、有り体に申し上げますが、陛下から夜のお召しはありますか?」
それには流石に絶句した。父から訊ねられて娘が嬉しい話題ではなく、むしろ避けたい話だ。しかし、娘婿が皇帝ともなると、そうはゆかないらしい。文昭は真顔で続けた。
「?将軍の次女が近々、入内するそうですよ。我々としても、うかうかと手をこまねいていてはいられない。貴妃さまは皇太子さまをお生み奉った後にも第二皇子、第三皇子とできるだけ多くの御子を産んで頂かねばならぬ大切な御身です」
「お父さま、まだ私は懐妊中なのですよ。しかもお腹もこんなに大きいのに、夜伽などできません」
現実には今朝も空き部屋に連れ込まれ、一刻余りも皇帝に抱かれ続けていたのだが、そんなことを父親に言えるはずもない。石榴茶を取りに部屋に戻っていた凜鈴はあの後、芳華の姿が四阿から消えていたため、心配してさんざん探し回ったそうだ。
他の女官や宮女たちも動員して、ちょっとした騒ぎになったらしい。何しろ目下は皇帝の第一子、ただ一人の御子を宿した大切な貴妃だ。何事かあっては一大事、もしや池に誤って落ちたのではと、池まで浚ったと凜鈴から聞かされ、芳華は到底事実を伝えられなかった。美しい花を求めて彷徨っている中に広大な庭園で迷子になったのだと告げた。
果たして凜鈴がそれを信じたかどうかは疑わしいが、彼女は敢えて女主人の秘密を暴こうとするほど愚かではない。
「生き馬の目を抜く後宮は伏魔殿ですからね。ぼんやりしていたら、足許を掬われます。何事も先手必勝ですよ、貴妃さま」
「これから何人のお妃が入内されるか知りませんが、私は他のお妃方と陛下の寵愛を競うつもりはありませんわ」
「何と情けないことを仰せなのでしょうね。この父は郁家のゆく末を貴妃さまに託しているのに、そのような気弱なことを仰せられますな」
気弱なのではない、大勢の女たちとただ一人の男の愛を奪い合うような浅はかな日々を送りたくない、ただそれだけなのだ。だが、父のような人にそれを真面目に説いたとて、天地が逆さまになっても理解はして貰えないだろう。
そこに凜鈴が静々と現れた。凜鈴は盆から陶製の茶器(ポツト)と湯飲みを卓に置き、手際よく石榴茶を注ぐ。文昭と芳華、それぞれの前に湯飲みを置くと、また静かに室を出ていった。
凜鈴が出ていってから、文昭は湯飲みを手にし、小首を傾げた。
「貴妃さま、その簪は泰山木ですか?」
予期せぬ言葉に、芳華は愕きつつも頷く。
「え、はい」
文昭はなおも芳華の美しく結い上げた髪で煌めく簪を見つめていた。
「その簪は大方、陛下よりの賜り物でしょうな」
何故、父が知っているのかは判らないが、そのとおりなので、芳華はまたも頷いて見せた。
文昭は小さな息を吐いた。
「陛下がその簪を職人に作るように命じられたのは、貴妃さまと出逢われてまもなくのことです」
彼は少し考え込むような眼になった。
「そう、あれは確か去年の九月くらいだった。そのひと月ほど前に、私は貴妃さまの居所を漸く突き止めましてね。ホッとしたのも束の間、貴妃さまが若い男と共に暮らしていると報告を受け、仰天どころか、本気で首を括る覚悟をしたのですよ。ところが、よくよく調べれば、その男というのが皇帝陛下だというではないですか。陛下が民情視察と称して宮殿をしょっちゅう抜け出されているのは私も知っていましたが、まさか市井で名も無き民に身をやつして暮らしておられるとまでは考えてもいなかった。廷臣たちを集めての御前会議など、必要なときにはちゃんと宮殿におられましたからね」
芳華はぼんやりとした頭で考える。法明は朝、小間物の入った大きな箱を背負って家を出て、夕刻に戻ってくるのが常だった。時には陽が落ちてから帰宅するときもあった。その中には恐らくは小間物を売り歩いていただけではなく、宮殿に戻る時間もかなり含まれていたに相違ない。
文昭は湯気の立つ石榴茶をひと口啜った。
「思えば、陛下はあの簪をお作りになると決めた時、あなたを本気で愛されたのでしょう」
「お父さま、陛下は」
本気で自分を愛しているわけではないのだと言おうとしたのに、文昭は少し厳しい声音で制した。
「まあ、お聞きなさい。陛下のおん父君とおん母君の間の泰山木にまつわる話を聞いたことはおありですか?」
「はい。栄の姫君であられた先の皇后さまを先帝陛下が深く愛され、求婚の証に泰山木の花を象った簪を贈られたと聞きました」
「そのとおり。ですから、陛下にとって、泰山木の簪は特別なものなのです。ご幼少の頃から、ずっとご両親のような熱烈な恋愛結婚に憧れておられましたから。幼かった陛下が私にも何度か、泰山木の簪を贈るような姫にめぐり逢いたいと仰せだった。当時、皇太子殿下であられた陛下とあなたの婚約は決まっていましたから、婚約者の父としては複雑な心境でしたが、あの頃はまだ陛下もおん幼く、私が許婚の父親であるからとまでは考えが回らなかったのでしょうね。十歳を過ぎる頃にはもう、私にそのような話は一切されなくなった。私は内心、陛下にそのような娘の現れぬことを願っていましたがね」
「―」
作品名:後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】 作家名:東 めぐみ