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後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】

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 芳華はまた強く唇を噛みしめた。あまりに強く噛みすぎたため、鉄錆びた味が口の中にひろがる。
「皇帝陛下は冷酷な独裁者よ。きっと嫌な男に決まってる。自分寄りの人間や民には寛大で慈悲深いけれど、刃向かう者は容赦なく切り棄てるというわ。また、思い通りに物事を運ぶためにはかなり強引な手段を使うともいわれているわね」
「皇帝も気の毒だな。顔も見たことのない妻にそこまで嫌われるとは。芳華はもう本当に後宮に戻るつもりはないのか?」
 何故か法明の口調は冷ややかで、自嘲気味に聞こえた。芳華は愕いて良人の顔を見た。美貌が際立つ男だけに、こうして取り澄ました表情をしていると、いっそ美男に見える。
 芳華には彼が一瞬、彼女の知らないまったく別の男に思えて、眼をまたたかせた。彼女の不安げなまなざしに気づいたのか、法明が笑みを浮かべる。
 ああ、大丈夫、やっぱり、私のよく知っている法明だと、芳華の不安は太陽に溶かされた雪のように消え果てた。
「当たり前でしょ、法明とも出逢って、私たちの赤ちゃんまでできたのに、どうして今更、そんなことを訊くの?」
「そう―か」
 芳華の腰に回された法明の手がかすかに震えた。その整いすぎるほど整った面に拭いがたい翳りが一瞬落ちるのを芳華は見逃してしまった。
 ただ見上げたときの法明の瞳は濃い紫に染まっていた。彼の瞳は感情が強く表れたときほど紫に染まる。しかし、何故、皇帝や後宮に戻らないという話で、彼がここまで強い感情を示すのか、芳華は理解できなかった。
「お願い、私の側からいなくならないでね。あなたを失ったら、私はもう生きていけない」
 芳華は法明に縋り付く。法明もまた芳華を強く抱き寄せた。
「大丈夫だ、他の男にお前を渡すものか。芳華のことは俺が守るから、安心しろ」
 その夜、二人は烈しく求め合った。法明は憑かれたように執拗に芳華を求め、芳華も愛する男とけして離れまいとするかのように彼の身体に手を回した。都の空が白々と明ける頃まで、絡み合う二つの影はけして離れることはなかった。

 翌日の昼過ぎのことである。場所は芳華が逃げ出した宮殿において、皇帝の住まいである星辰殿では、ひそやかなやりとりが交わされていた。皇帝の居所にこのような呼称がついているのは、操国で唯一無二の絶対的存在である皇帝は神獣とされる龍の化身、天界を司る星神だとされているからだ。
 この国での皇帝の権限はそれほどに強大なのだ。今、その皇帝の住まう星辰殿の一室には、宰相郁文昭が御前に伺候していた。
「もう少し待ってくれぬか」
 玉を連ねた御簾の向こうに皇帝が座しているのが判る。現皇帝光武帝はまだ二十歳、その声も張りがあって若々しい。が、その声音は何か心配事でもあるのか、いささか沈んでいる。
「皇上がそのように仰せになるのであれば、私に異存はありませんが」
 文昭は恭しく応える。
「さりながら、事は刻が経てば経つほど、厄介になりましょう。僭越ながら、陛下よりは長い時間を生きた者として臣下ではなく、大切な娘を託す義父として衷心より申し上げますが、人の心とは殊に長く経つほどにこみ入ってしまうものにございます」
 御簾の向こうで、かすかに身じろぎがあった。普段は海千山千の老練な宰相を相手に難なく交わして互角に渡り合える二十歳の皇帝が明らかに動揺している。
 文昭はその様子を複雑な心中で眺める。皇帝だけに権力を掌握されることよしとしない野心家の一国の宰相としてはまさに思う壺だ。その反面、娘を愛する一人の父親としては、心痛む決断でもあった。
「それは朕(わたし)もよく判っておる。だが、郁貴妃は今が最も大切な時期なのだ。今は衝撃を与えたくない」
「事を先伸ばしていましては、貴妃さまのご出産の日が来てしまいます。操国の未来の皇太子殿下が市井のあばら屋でご生誕になってはゆゆしき事態でございますぞ」
「―判っておる」
 皇帝が立ち上がる気配が御簾の向こうでする。文昭はその場に跪き両手を組み、頭を垂れた。宰相といえども、皇帝を迎えるとき、退出を見送るときは最高の敬意を表す拝礼を行うのが操国でのしきたりだ。
 皇帝が御座所を出たのを確認してから、文昭は漸く立ち上がった。入内させた娘が後宮から出奔したと知ったときは肝を冷やしたものだったが―、事は彼が予想もしていない形に向かった。
 本来なら、彼は諸手を上げて歓ぶべきであろうが、すべてを知った娘がどれほど嘆き哀しむかを考えると、流石に彼の心は沈んだ。