後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】
Prologue〜白き花の下で〜
少年はずっと頭上を見上げていた。もうかれこれ一刻以上に渡って、彼はその場所にいた。黒い瞳が向けられている先には白い大ぶりの花をたわわにつけた大きな樹が立っている。泰山木、彼の亡き母がこよなく愛した白き汚れない花。
緑のつやつやとした葉と冬に降る雪のような純白の大輪の花は見た目も対照的で、眼にも眩しい。
少年は九歳ほど、丈長の袍(ほう)を着て、その下には動きやすいように穿袴(ズボン)をはいている。髪は頭頂部で髷にして一つに束ねていた。その身なりは明らかに庶民のものではない、貴族の子弟のもので、身に纏うものはすべて一級品ばかりである。
第一、ここは宮殿の広大な庭園の中でも奥まった一角で、後宮にも近い。たとえ高位の貴族でも、なかなかここまで脚を踏み入れることはできないのだ。もちろん、後宮に立ち入ることのできるのは、男子としてはその主(あるじ) たる皇帝ただ一人だ。
―母上、私もいつか出逢えるでしょうか?
幼い彼は心の中でそっと亡き母に呼びかける。彼の母、楊皇后は前皇帝、光成帝の最も寵愛の厚い妃であったが、惜しむらくは皇帝にとってたった一人の皇子を産んだ五年後、儚くなってしまった。
元々、身体の弱い女(ひと)であったと聞いている。母が亡くなったのは彼が五歳になったばかりの冬だったけれど、優しかった母の記憶はまだ彼の中にわずかに残っていた。
母が亡くなって以来、父は重臣たちの勧めもあり、やむなく皇后の次位であった黄貴妃を新しい皇后に立てた。長らく国の母である皇后の地位を空けるわけにはいかないと周囲からさんざん説得されてのことだ。
何の鳥かは知らねど、蒼い鳥が咲き誇る花びらを啄んでいる。まだやわらかく新鮮な花びらは鳥の格好の餌にもなる。もっと近くで鳥を見てみようと一歩を踏み出した時、足許の小石を踏みつけてしまった。静寂が満ちた広大な空間に、その音は意外に大きく響き渡った。小さな鳥は愕き、啼き声を上げて飛び立った。バサバサと羽音が忙しなく響き、愛らしい小鳥は直に蒼穹へと吸い込まれて見えなくなった。
少年は名残惜しげに鳥の消えた方角を見つめる。
いつか私も父上のように愛する女を見つけられるだろうか。この世でたった一人の女性とめぐり逢えた父上のように。
九歳の皇子はいつまでもその場に立ち尽くしていた。
家出
芳華(ほうか)はむうと頬を思いきり膨らませていた。郁芳華は十六歳、この操(そう)国の宰相郁文昭(ぶんしよう)の一人娘である。物心つくかつかない砌から、?将来は皇室に嫁いで皇后さまになるのだよ?と両親からくどいほど言い聞かされて育ってきた。必然的に周囲の者たちも?姫さまはゆくゆくはこの国の皇后さま?だと腫れ物に触るように気を遣われ大切にかしずくことになる。
いつ王室に入っても良いようにとあらゆるお妃教育を施され、学問・歌舞音曲、女の諸芸万端に始まり礼儀作法などはすべて徹底的にたたき込まれた。それぞれによって付けられた教師は異なり、眠たい眼をこすりつつ受ける毎日の厳しい修練の時間が幼い芳華にとっては最大の苦痛となった。
顔も見たことのない?婚約者?のために子どもらしい無邪気なふるまいも許されず、ただひたすら?未来の皇后?としての厳しい教育を一方的に押しつけられたのだ。芳華は必然的に?婚約者?も王室に嫁ぐのも大嫌いになった。
「芳華、そなたはこの私の言うことを聞いておるのか?」
堪りかねたように父文昭が言うのにも、彼女は頬を膨らませたまま、そっぽを向いたままである。十六歳にしては童顔で小柄な芳華はちょっと見には十三、四歳にしか見えない。そんな彼女が精一杯拗ねて見せたとしても、あまり迫力はないのだが。
当人はそんなところは少しも判ってはいない。文昭は呆れたように大きな吐息をつく。大体、父はいちいち大仰すぎるのだ。今もこれ見よがしな溜息をつき、肩を竦めて見せているのも下手な芝居なのが丸分かりだ。
「芳華っ、良い加減にしなさい」
ついに父が声を荒げたので、芳華は渋々文昭の方を見た。普段は愛娘に声を荒げることなどない温厚な父だが、一度怒らせると、なかなか厄介だ。
「そなたは私の―」
先刻からもう数え切れないほど繰り返された科白にうんざりして、芳華は文昭を上目遣いに恨めしげに見上げる。
「そのように大声を出されずとも、ちゃんと聞いておりましたわ。お父さま、私、耳はちゃんと聞こえておりましてよ」
「ならば、、何ゆえ、返事をせぬのだ!」
その応えは至って明瞭、返事をしたくないからだったが、正直に言えば、ますます父の怒りを買うことは判っているので、芳華はまた口をつぐんでやり過ごすしかなかった。
「良いか、我が郁家は畏れ多くも初代太祖の御世から既に二度も皇后を輩出している誉れ高き家柄、そなたと皇帝陛下の縁談も陛下がまだ皇太子であられた頃から正式に定められたものなのだぞ」
「それがどうかしましたか?」
芳華が投げやりに返すと、文昭は信じられないといった表情で首を振る。
「お父さまが私を皇帝陛下に嫁がせたいのは、今の宰相としてのご自分の地位と権力をますます強固なものになさりたいからでしょう。そのくらいのことは私にも判ります」
芳華は父にならって大きな溜息をわざとらしくついてから、キッと父を見据えた。
「ですが、私はひいお祖母さまや、そのまたお祖母さまのように政略結婚の犠牲になるなんて、真っ平です。私は心からお慕いする殿方に添いたいのです。ゆえに、お父さまに命じられるがままに入内はできません」
きっぱりと宣言すると、父は最早、呆れて言葉を失っているようだ。
「なっ、なっ、何を馬鹿なことを言っているのだ。そなたの気持ちを尊重して、私もこれまでは待った。本来であれば、陛下が皇太子であられたときにそなたは妃となるべきはずであったものを、特別のお計らいにて今日まで嫁ぐのを待って下されたのは陛下の寛大なる御心があったればこそ。しかし、かといって、これ以上、最早、入内を引き延ばすことはできぬ。現に、?将軍の次女が妃候補に名乗りを上げている。このままうかうかと手をこまねいていては、あちらに先を越されてしまう」
芳華は文昭に事もなげに言う。
「結構なことではありませんか、?将軍の次女といえば、?玉蘭さまでしょう? 私も何度かお眼にかかったことがございましてよ。噂に違わず、国を傾けるほどの色香溢れる美貌のお方、そのような方こそがお若い陛下にはふさわしいのではありませんこと?」
有り体に言えば、平凡な顔立ちで、これといって誇るものは何もない芳華よりはよほど操国の皇后にふわしいといえる。?将軍はこの国の軍隊すべて掌握し、軍部の頂点にいる重臣中の重臣だ。父文昭が文官の筆頭に位置するとすれば、軍人の筆頭にいるのが?将軍ということになる。
?将軍自体は軍人とはいえ、なかなかの野心家で、若き皇帝の後宮に娘を納れて皇帝の外戚となることを強く望んでいるという。将軍には三人の娘がいて、長女は既に将軍の部下に嫁いでいる。美貌で名高い次女玉蘭は十九歳、適齢期というにはやや年嵩だが、これは父親の将軍が美しい玉蘭をいずれは皇妃にと目論んでいたという専らの噂だ。
少年はずっと頭上を見上げていた。もうかれこれ一刻以上に渡って、彼はその場所にいた。黒い瞳が向けられている先には白い大ぶりの花をたわわにつけた大きな樹が立っている。泰山木、彼の亡き母がこよなく愛した白き汚れない花。
緑のつやつやとした葉と冬に降る雪のような純白の大輪の花は見た目も対照的で、眼にも眩しい。
少年は九歳ほど、丈長の袍(ほう)を着て、その下には動きやすいように穿袴(ズボン)をはいている。髪は頭頂部で髷にして一つに束ねていた。その身なりは明らかに庶民のものではない、貴族の子弟のもので、身に纏うものはすべて一級品ばかりである。
第一、ここは宮殿の広大な庭園の中でも奥まった一角で、後宮にも近い。たとえ高位の貴族でも、なかなかここまで脚を踏み入れることはできないのだ。もちろん、後宮に立ち入ることのできるのは、男子としてはその主(あるじ) たる皇帝ただ一人だ。
―母上、私もいつか出逢えるでしょうか?
幼い彼は心の中でそっと亡き母に呼びかける。彼の母、楊皇后は前皇帝、光成帝の最も寵愛の厚い妃であったが、惜しむらくは皇帝にとってたった一人の皇子を産んだ五年後、儚くなってしまった。
元々、身体の弱い女(ひと)であったと聞いている。母が亡くなったのは彼が五歳になったばかりの冬だったけれど、優しかった母の記憶はまだ彼の中にわずかに残っていた。
母が亡くなって以来、父は重臣たちの勧めもあり、やむなく皇后の次位であった黄貴妃を新しい皇后に立てた。長らく国の母である皇后の地位を空けるわけにはいかないと周囲からさんざん説得されてのことだ。
何の鳥かは知らねど、蒼い鳥が咲き誇る花びらを啄んでいる。まだやわらかく新鮮な花びらは鳥の格好の餌にもなる。もっと近くで鳥を見てみようと一歩を踏み出した時、足許の小石を踏みつけてしまった。静寂が満ちた広大な空間に、その音は意外に大きく響き渡った。小さな鳥は愕き、啼き声を上げて飛び立った。バサバサと羽音が忙しなく響き、愛らしい小鳥は直に蒼穹へと吸い込まれて見えなくなった。
少年は名残惜しげに鳥の消えた方角を見つめる。
いつか私も父上のように愛する女を見つけられるだろうか。この世でたった一人の女性とめぐり逢えた父上のように。
九歳の皇子はいつまでもその場に立ち尽くしていた。
家出
芳華(ほうか)はむうと頬を思いきり膨らませていた。郁芳華は十六歳、この操(そう)国の宰相郁文昭(ぶんしよう)の一人娘である。物心つくかつかない砌から、?将来は皇室に嫁いで皇后さまになるのだよ?と両親からくどいほど言い聞かされて育ってきた。必然的に周囲の者たちも?姫さまはゆくゆくはこの国の皇后さま?だと腫れ物に触るように気を遣われ大切にかしずくことになる。
いつ王室に入っても良いようにとあらゆるお妃教育を施され、学問・歌舞音曲、女の諸芸万端に始まり礼儀作法などはすべて徹底的にたたき込まれた。それぞれによって付けられた教師は異なり、眠たい眼をこすりつつ受ける毎日の厳しい修練の時間が幼い芳華にとっては最大の苦痛となった。
顔も見たことのない?婚約者?のために子どもらしい無邪気なふるまいも許されず、ただひたすら?未来の皇后?としての厳しい教育を一方的に押しつけられたのだ。芳華は必然的に?婚約者?も王室に嫁ぐのも大嫌いになった。
「芳華、そなたはこの私の言うことを聞いておるのか?」
堪りかねたように父文昭が言うのにも、彼女は頬を膨らませたまま、そっぽを向いたままである。十六歳にしては童顔で小柄な芳華はちょっと見には十三、四歳にしか見えない。そんな彼女が精一杯拗ねて見せたとしても、あまり迫力はないのだが。
当人はそんなところは少しも判ってはいない。文昭は呆れたように大きな吐息をつく。大体、父はいちいち大仰すぎるのだ。今もこれ見よがしな溜息をつき、肩を竦めて見せているのも下手な芝居なのが丸分かりだ。
「芳華っ、良い加減にしなさい」
ついに父が声を荒げたので、芳華は渋々文昭の方を見た。普段は愛娘に声を荒げることなどない温厚な父だが、一度怒らせると、なかなか厄介だ。
「そなたは私の―」
先刻からもう数え切れないほど繰り返された科白にうんざりして、芳華は文昭を上目遣いに恨めしげに見上げる。
「そのように大声を出されずとも、ちゃんと聞いておりましたわ。お父さま、私、耳はちゃんと聞こえておりましてよ」
「ならば、、何ゆえ、返事をせぬのだ!」
その応えは至って明瞭、返事をしたくないからだったが、正直に言えば、ますます父の怒りを買うことは判っているので、芳華はまた口をつぐんでやり過ごすしかなかった。
「良いか、我が郁家は畏れ多くも初代太祖の御世から既に二度も皇后を輩出している誉れ高き家柄、そなたと皇帝陛下の縁談も陛下がまだ皇太子であられた頃から正式に定められたものなのだぞ」
「それがどうかしましたか?」
芳華が投げやりに返すと、文昭は信じられないといった表情で首を振る。
「お父さまが私を皇帝陛下に嫁がせたいのは、今の宰相としてのご自分の地位と権力をますます強固なものになさりたいからでしょう。そのくらいのことは私にも判ります」
芳華は父にならって大きな溜息をわざとらしくついてから、キッと父を見据えた。
「ですが、私はひいお祖母さまや、そのまたお祖母さまのように政略結婚の犠牲になるなんて、真っ平です。私は心からお慕いする殿方に添いたいのです。ゆえに、お父さまに命じられるがままに入内はできません」
きっぱりと宣言すると、父は最早、呆れて言葉を失っているようだ。
「なっ、なっ、何を馬鹿なことを言っているのだ。そなたの気持ちを尊重して、私もこれまでは待った。本来であれば、陛下が皇太子であられたときにそなたは妃となるべきはずであったものを、特別のお計らいにて今日まで嫁ぐのを待って下されたのは陛下の寛大なる御心があったればこそ。しかし、かといって、これ以上、最早、入内を引き延ばすことはできぬ。現に、?将軍の次女が妃候補に名乗りを上げている。このままうかうかと手をこまねいていては、あちらに先を越されてしまう」
芳華は文昭に事もなげに言う。
「結構なことではありませんか、?将軍の次女といえば、?玉蘭さまでしょう? 私も何度かお眼にかかったことがございましてよ。噂に違わず、国を傾けるほどの色香溢れる美貌のお方、そのような方こそがお若い陛下にはふさわしいのではありませんこと?」
有り体に言えば、平凡な顔立ちで、これといって誇るものは何もない芳華よりはよほど操国の皇后にふわしいといえる。?将軍はこの国の軍隊すべて掌握し、軍部の頂点にいる重臣中の重臣だ。父文昭が文官の筆頭に位置するとすれば、軍人の筆頭にいるのが?将軍ということになる。
?将軍自体は軍人とはいえ、なかなかの野心家で、若き皇帝の後宮に娘を納れて皇帝の外戚となることを強く望んでいるという。将軍には三人の娘がいて、長女は既に将軍の部下に嫁いでいる。美貌で名高い次女玉蘭は十九歳、適齢期というにはやや年嵩だが、これは父親の将軍が美しい玉蘭をいずれは皇妃にと目論んでいたという専らの噂だ。
作品名:後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【前編】 作家名:東 めぐみ