短編集『ホッとする話』
十三 忘れられない味 前編
副題 まずかった味
忘れられない味
その言葉を聞いてどう答えるだろう?おそらくそれは美味しかった話をするだろう。僕もそうだ。
だけども忘れられないくらい「美味しくなかった」食事もあると思う。僕はそっちの方がよく覚えている――。
あれから十年以上が経っているけど、あれを超えるものは幸いにも出会っていない。
僕は一ヶ月に渡る出張から帰ってきた次の日だった。結婚して初めての正月を出張先で迎えることになった。
年末にはその年出来たばかりのディズニーシーへ行こうと約束したのに、それもポシャり、僕は職場のチームと共に出張することになった。年が明けて、正月を実家で迎えることとなった妻に侘び電話をしたら、
「こっちは心配ないから」と言ってくれた。しばらく黙った後、思い出したように
「帰って来てから言おうと思ったけど、やっぱり言うね。あのね、3ヶ月って言われたんだ――」
その年はそんな吉報から始まった。僕はその知らせに浮き足立って、その他に連絡することも忘れて新年早々ホテルでニヤニヤしていた。
次の休みにも妻から携帯電話に連絡があった、祖母宅からだった。新年の挨拶は僕が出張から帰ってから行く事になっていたが、実家の両親がこの日に挨拶に行くと聞いていたので一人で車を運転して来たのよと報告があった。両親が到着する前に妻の方が先に着いたそうだ。どうしても祖母に伝えたい事があった、それは聞かなくてもわかった。
後で妻から聞いたけど、携帯電話の使い方をよく知らなかった祖母は緊張した声で僕に話しかけてきた。
「明けましておめでとう」と返事したあと「ごめんね、出張から戻るのにあと三週間はかかるんだ」と言おうとする前に、祖母の興奮した声が電話を遠ざけた。
「赤ちゃん出来たって?よかったなぁ」
八十歳を越える祖母の声は頗る元気だ。そういや結婚してすぐに曾孫の話をしてたもんな。
「予定日は八月らしいから、それまでは元気しててよ」
僕はそう答えた。色んな言葉を探して頭を巡らせたけど、思い付いた言葉は何ともありきたりの言葉だった。祖母はいつもの元気な声で「早よ帰っといでよ」と言って電話を切った。
よく冗談で母親には「オカンより婆ちゃんの方が長生きするで」と冗談を言うが、それくらい元気な声だった。
それから三週間、僕は出張先での仕事を無事に完遂し、一月振りに自宅に帰ってきた。迎えた妻の顔はいつもと変わらなかった、一人の身体ではないのよと言うけど急にはわからなかった。何せ初めての事なので、どうすればいいのかこれから考えようって二人で相談して決めた。
出張で疲れてはいたものの、両親には自分が無事に帰ってきた事は連絡した。このとき妻が
「おばあちゃんにも連絡したら?」
って尋ねたけど、夜も遅かったので結局この日は連絡せず仕舞いだった――。
「また明日するわ――」
そう言い終わらない内に僕は眠りに落ちていたそうだ。
* * *
翌日、朝から市役所まで歩いて母子手帳を貰いに行った。妻が妊娠しているのを実感した瞬間だった。「そろそろ欲しいよね」と計画したものの中々出来ずに半年。お互い悩み始める矢先の事だったのでお互いに喜びあった。
今年はいい一年になりそうだ
僕も、妻もそう思っていた。
夕方、初孫の妊娠をお祝いするということで実家の母親と会って食事することになっていたので車で向かっていたら、珍しく向こうから連絡があった。
「今日ヤクルトさんから連絡があってね……」
僕はそれだけで嫌な予感がした。運転中だったので助手席の妻が話を聞いていたが、その表情ですべてがわかった。
祖母の住む町は独居の高齢者世帯について、行政が週二回自宅にヤクルトを配るシステムがある。それで状況を把握するというものだ。
そこから連絡があったのだ。軒先の牛乳受けがそのままである、と――。
僕は急に胸騒ぎがして、食事のことなんかすっかり忘れ、実家の母親を拾ってすぐに祖母の家まで急行した。途中電話をかけるが応答がないので僕たちはますます不安になった。
車で30分、隣町に住む祖母の家に着いた。小さなアパートだ、夫を戦争で亡くし一人でずっと住んでいる。
確かに牛乳受けにヤクルトが二本、一つは今日の分だ。
「どっか出掛けたんじゃないの?」
「取り忘れて出てったとか」
三人とも希望的見解を述べるが、顔色は変わらない。
「鍵は洗濯機の後ろに隠してるから、私がおらんかったら入っててな……」
祖母の言葉を思い出して僕は洗濯機の後ろを見た。
鍵がない――。僕たちの鼓動はますます速くなった。
裏に回り窓から部屋の中を恐る恐る除いた。僕は一瞬で血の気が引いていった。祖母が倒れているのだ――。
日頃戸締まりしない祖母はこの日に限って窓に鍵をかけている。呼べど叫べど、窓を叩こうと一向に返事がない。僕は已む無く窓を割り、部屋に入った。咄嗟に祖母の身体に触れ、口元を確認した。
まだ温かい、そして微かに呼吸がある
救急車は妻が呼んだ。母は何も出来るような状態ではなかった。僕は玄関の鍵を解くと、母も妻も入ってきてしきりに祖母を呼んだ。しかし、返事をすることはなかった。
幸いここが消防署の近くだったので、救急車はすぐに来てくれた。祖母は身体に色んな物をつけられ、祖母は救急車で運ばれて行った。母も同乗して行った、何を言ってもダメなくらい取り乱していた。
「危険な状態です。搬送先は……」
それだけを聞くと目の前が真っ暗になった。多分母はこれ以上のダメージを受けているだろう。
気持ちを整理して僕と妻、そしてお腹の子供は車で病院に後追いした。
救急の待合室に入ると、母親が顔をクシャクシャにして座っていた。僕は敢えて冷静に、冷静に構えて心の準備をした。
「ここで見届けることになる」
詳細な説明はあったが、端的に言えばその一言だった。
祖母の子は母一人、呼び出す家族も父と妹しかいない。父に電話するとすぐにつながったが、社会人一年生の妹は掛けてもつながらず、メールを打つことにした。今まで妹を呼び出す時に冗談で
「ソボキトク スグカエレ」
とメールを何度か打った事があるが、まさか本当にこの日が来るとは思わず、携帯電話を持つ手が震えて送信するのに時間を食った。
慌てて電車で病院に駆け付けた父親と妹、心の準備は出来ていないが、とにかく急いで集中治療室に入った。
ベッドに横たわる祖母、色んな管が着いていて、僕の知っている人とは別人であることを願ったが、それは叶わないものだった。呼ぼうが叫ぼうが身体をさすろうが祖母は返事をしてくれない。いつかは来る現実が突然来ただけなのに、ここにいる全員が誰もそれを受け入れようとしなかった。
医師の説明を聞くが、その時が近いことには変わらない事を聞いて、誰もまともに聞けるような心境ではなかった。それを受け容れる以外の選択肢はないのはわかっているのに。
あとは時間の問題――、それぞれが長い時間をかけて自分の中で理解をした僕たちはようやくそれを受け入れ、車に乗り込んだ。その日の長い長い一日はそろそろ終わりに近付き始めていた。
作品名:短編集『ホッとする話』 作家名:八馬八朔