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短編集『ホッとする話』

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 病院に到着したが時間が遅れ妻には会うこ とが出来ず、分娩室の前でヤキモキする、道中あれだけ早く過ぎた時間がここでは全然過 ぎない。どれくらい待ったかわからないが、分娩室から最初に出てきた医師が私を見て小さくひと声かけた。
「おめでとうございます」

 そのすぐあとにたった今生を受けたわが子 が保育器に入った生まれたてのわが子を見 て、言葉を無くした。予想はしていたがそれ 以上に小さく、肉付きのない痩せ干そってい て今にも動かなくなりそうで、息も弱い ――。医師は問題ないと説明するが、その姿があまりに痛々しい、保育器と言う名の生命維持装置に入りわが子に直接触れることすらできない。命の誕生に感動という言葉はなく、心配と不安だけでどうしようもなかっ た。

 幸い母体に出産後の異常はなく、数日後妻だけが先に退院することになり、「大きな忘れ物をした」と言って時おり子のいない我が家で泣き出す日が続いた。 その後も病院通いの毎日が続き、業務には明らかな支障が出たが、それでも部下はじっ と上司の指示に従う、それが時には無茶なものであっても。

 わが子が保育器を脱し、外の世界に出られ た時には年が明けていた――。

   *  *  *

 家がやっと落ち着いて仕事に集中できるようになってすぐのことだった。今まで私の下で働いていた桂さんが異動することになった。能力があるのにこんな雑用係のようなところにいるのは宝の持ち腐れと思った私は、 彼女が将来のために上司に具申をして道を作ってやるくらいのお礼しかできることがな かった。その具申は予定より早く決まりこの日を迎えられた。

 最後の挨拶を終えたあと、桂さんは私の向かいの空になったデスクに座った。仕事以外 の話はあまりしなかった間柄であったが、この時は仕事を抜きにした話題が出たことに私 は少し驚いた。
「これまで、ありがとうございました」
「それは、こっちのセリフだから……」
互いに笑いあった。難しい局面も協力して切り抜けたそれだった。

 笑いが止まり、一瞬の間が生まれると、彼女の方から話し掛けてきた。
「奥様とお子さまは、大丈夫ですか?」
「ま、まあ」 私は少し驚いて返事をした。
 この時期にな ると、仕事も落ち着き子どももひと安心の 態になっていた。ただ、今まで家庭の話は彼女にはしていなかった。というのもここに配 属になった頃の話の中で、彼女は私にちょっ と言ってたことを思い出したからだ。

「出産を考えているのですが、なかなかうまくいきません」

 そう言われると、難産ではあったけど生まれたわが子の話を、生むにも生めない時期が続く彼女の前で話すことなどできなかった。
「私も聞きたかったんですけど、心配で中々 聞けなくって――」 と言って微笑む部下の顔に私は優しさを感じ た。
「生まれた時に先生から『おめでとうござい ます』と言われたけど、素直にありがとうご ざいますと言ったらいいのかわからなかった んだよね」
 誰にも話せなかった本音。自分の意志とは 違うなにかが私の口をするすると滑らせる と、私はすぐに口を押さえた。
「大丈夫ですよ。しっかり大きくなります」
根拠のない気休めは言わない部下、この時 もそうだ。それは気休めには聞こえなかっ た。
「気にしすぎては、いけませんよ。私は双子ですから1500グラムで生まれて来たんです」
彼女はもう一度微笑んだ。その中に優しい だけでなく、確かな強さを私は感じた。 彼女はずっとそれを言いたかったのだ。それなのに自分はそんな部下に心配だけでなく形のないプレッシャーも与えていた事を悔い た。そして、私も彼女の内に感じた確かなも のを、知らせてあげなければならないと思 い、その気持ちが言葉になってひとりでに現 れた。
「私もあやからせて下さいね」
「大丈夫、そのうち叶うよ――」

 その会話を最後に桂さんとは会っていな い。記憶が映し出す光景がそれとは違う方向 から聞こえる音に揺られ、やがて、消えた。 良く見たら見えるだろう残像がほんのり残っている。私は前を向き直ると、その音が子供 たちが伴奏に合わせてしっかり歌っている声であることがわかり、残像は完全に姿を消し た――。