短編集『ホッとする話』
〜碑文〜
その後の山辺安之助は大正12(1923)年に多くのアイヌに惜しまれて病没した。そして花守信吉の消息は歴史のどこを探しても残っていない、南極探検隊員として立派な功績を残したがにも関わらず、彼は激動の20世紀という歴史の渦の中の向こう側へ行ってしまった。
日本の南極探検隊が南極点を目指して30年余りが経った昭和21(1946)年、隊長だった白瀬 矗中尉は
我なくも 必ず探せ 南極の
地中の宝 世にいだすまで
と句を遺して世を去った。白瀬隊長の悲願は没後22年の昭和43(1968)年、初めて日本人が南極点に到達した。彼の名前は観測船「しらせ」の名前に生きているが、五人の隊員が突撃隊として南進した中に二人のアイヌがいて、そして置き去りにされた樺太犬がいることはあまり知られていない。
二人のアイヌ、山辺安之助と花守信吉またの名をヤヨマネクフとシシラトカ。彼らの思いはあれから100年が経った今、どれだけ届いているだろうか――。
日の目を見ないアイヌたちの功績に憂慮した日本のある一団は、北海道を中心に現存するアイヌから山辺と花守が慰霊碑を立てたという情報を得た。
二人が建てた碑文のない碑はアイヌの伝統的方法である口承によって伝えられたがやがて時代は戦争の世の中になり、ついに昭和20年戦争に破れた日本は樺太をソビエト連邦に明け渡すこととなった。現地にいるアイヌは故郷を追われ多くは北海道に渡り、そして戦後の驚異的な復興と技術の発展、そして世界のグローバル化に伴い、その碑はおろか、アイヌの存在さえも歴史の舞台から次第に薄れて行っている――。
情報をもとに、それは樺太・落帆の外れの吊り橋の向こうの丘の上にあるということで、探し求めていたこの地にたどり着いた。それは、ただいくつかの盛り土だけがある丘であった。文字のないアイヌの文化では、ここがそうだという成文化された資料はない。しかし、ここは遠い昔、山辺と花守という南極に立った二人のアイヌが建てた「碑文のない碑」であることに間違いない。そう信じてここに
「南極探検隊員追弔之碑」
と書いた碑を立てた。それは文字を持たないアイヌの習わしでないかもしれないが、一団の採った行動は我々日本人のために尽力してくれたアイヌと南極に置き去りにされた樺太犬に敬意をと鎮魂、そして未来の平和を表して日本人が採ったそれであることを念じ一団は合掌をし、アイヌのためにしきたりに倣って口笛を吹いた。すると遠くの方から
オオォーーーーン
という犬の鳴き声が聞こえた。ここに宿る魂はそれを承諾した、そう信じて疑わなかった――。
碑文のない碑 おわり
作品名:短編集『ホッとする話』 作家名:八馬八朔