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短編集『ホッとする話』

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 花守は目を覚ました、開南丸の中だ。命からがら南極圏から脱出した船は北上し、日本に向けて航行中である。犬係の隊員である花守は六頭の犬とともに船底にある犬舎で生活をしている。今日も一頭一頭の顔を見て、我が子に等しい犬たちの様子を確認する。行きの船では暑さのために多くの犬を拠点であるシドニーに到着するまでに亡くしていることが頭にある。
「おう、よしよし。熱いけど我慢してくれ」
花守は一番小さい「ぶち」の顎をさすった。赤道付近を航行中のため、寒さにはめっぽう強い樺太犬は暑いところは苦手で舌を出して少しつらそうだ。

 花守信吉は樺太出身のアイヌである、本名をシシラトカという。樺太・敷香(シスカ)のアイヌの末裔である。
 花守は僅かしかない自分の水をぶちに与えて飲ませてやると、さっき見た夢が思い出され自然に目頭が熱くなり、涙が頬をつたい花守の立派な髭を湿らせた。
「また、夢を見たのか?」
 花守のそばに寄ってきたのは、もう一人の犬係である山辺安之助。彼もアイヌで樺太・落帆(オチョポ)の総代でアイヌ名をヤヨマネクフという、地元では有名なアイヌの豪傑である。募集されて集めてきた犬を東京に運ぶ過程で白瀬隊長の南極探検に対する思いを聞き感銘を受けて志願した男だ。
「ああ、何度も同じ夢を見てしまう」
 内容は話さなくても分かる。南極を離れる時に置き去りにしてしまった犬の夢だ。自然とともに生きるアイヌにとって犬は家族であり、かつ重要な交通手段だ。財を失っても犬は失わないのがアイヌの習わしである。
「ヤヨマネクフは夢を見ないか?」
「見ない筈がない。寝ても覚めても心が痛い」
 探検に使われた犬ぞりには樺太犬が使われた。イギリスが北極探検にイヌイットを起用したように、日本の内地には樺太犬ほど人に従順で、体力と耐寒性に優れた犬はおらず、かつ大型の樺太犬を自在に操れるアイヌが採用された。
 時代は明治に変わり、アイヌは「平民」に組されたが依然差別は残っていた。山辺は日露戦争を生き抜き、そしてアイヌの地位向上を望み、日本のために働いて死ねるのであれば本望だと、国の援助が途中で打ち切られたと聞いて名誉という見返りしか求めていない和人の辞退者が続出する中二人はそれでも探検隊に加わることを辞退しなかった。南極探検は日本という国を揚げるための挑戦であると同時に彼らアイヌにとっての挑戦でもあった。
 日本における南極探検は、南へ航行中に病に倒れた犬を含め延べ60頭の樺太犬と犬曳きである二人のアイヌなしには成し得なかったのだ。 

 二人の間に先ほどのぶちが割って入って来ると、二人の脚に体を擦り付けて甘えた声を出した。 
「そうか、お前たちも辛いだろう」
「許してくれ、許してくれよ」
山辺と花守は口笛を吹いて残りの犬を集めると、その時を思い出しては声を殺して泣き出した。

 生き残った犬は遺された家族だ。

 日本へ帰る間開南丸の一番底にある犬舎で、こうして花守と山辺は極寒の大地を共に進んだ家族と体を寄せ合って涙を流す日々がたびたびあった。その他の隊員もその光景を何度も見たが、掛けてやる言葉がなく、ただ見守ることしかできなかった。そこには自然と動物を大切にするアイヌに対しての同情はあっても、差別はなかった――。