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短編集『ホッとする話』

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「もしもし」
「兄ちゃん?わたし、麻衣子だけど」
「どうしたんだ、大丈夫か?」
「……うん」
 まだ呼吸が落ち着いていない。いきなり涙声で電話をするものだから兄ちゃんだって心配したに違いない。でも私は兄ちゃんの声を久々に聞いて子どもの時泣いていたのをじっと見守ってくれていたことを思い出すと気持ちがゆっくりと落ち着いていくのがわかる。

「今、いい?仕事中かな?」
 普段はたまにメールでやりとりするくらいだけど、兄ちゃんは急な電話でも嫌な様子ひとつなく、私に何かトラブルがあって電話を掛けたのでないことを知ると声が弾んでいるのが雰囲気でわかる。
「いいけど、何かあったのか」
「今ね、郷楽寺にいるの。学校の帰りで」
「ああ」
「それで、本堂の下でスゴいもの見付けたんだ。じゃなかった、五重塔のてっぺんだ」 
「おお、懐かしい」電話の向こうから大笑いする声が聞こえてきた。それだけで私の言いたいことが分かったみたいだ。
「『五重塔のてっぺん』に、あったろ?」
「うん、あった『五重塔のてっぺん』に」
自分の口から初めて笑い声が漏れた。
「あの時はすぐ見つかると思ってたんだけどな」
 電話が繋がったままお互いの会話がしばらく止まった。
「兄ちゃん、ごめんなさい」
「いいんだよ。こっちこそ、ごめんな。あの時俺がさっさと折れてたらよかったのにな」
 この状況でなぜそんな言葉が返せるのだろう。私は再び我慢していた涙が流れるのを感じた。
「ちゃんと守るよ、約束」
自分でも声が震えて何を言ってるのか分からなかった。でも言いたいことはちゃんと伝わっているはずだ。
「わかってるよ、でも、もう守れてるじゃないか」
兄ちゃんは言外で私に落ち着くよう言っている。それが嬉しくてまた泣き出した。お互いに大きくなったけど、今でも兄ちゃんは私が泣き止むのをじっと待ってくれている、今だけは四年生のあの頃に戻って少しだけ甘えてもいいと思った。

「お願い、あるんだ」
 気分を落ち着かせたあと、私は口を開いた。
「できることだったら、聞くよ。何さ?お願いって」
「今年は、帰って来てね」
甘えたついでに声だけで満足できなくなり、会いたくなって本当の気持ちがひとりでに口を伝って現れた。
「ああ、帰るよ。今年は」しばらく沈黙したあと、しっかりとした声が続いた「大事な用事があるからね」
 私の電話は、向こう側で兄ちゃんが誰かと話している声を拾った。内容は聞き取れないけど「妹だよ」というのが聞こえただけでだいたい分かった。兄ちゃんは今彼女と一緒のようだ。そしていよいよ今年の夏に彼女を連れて帰ってくるだろう。
 そんな状況を邪魔してはいけないと感じた私は電話を切ろうと思い「またね」を言おうとすると兄ちゃんの方からしゃべりかけてきた。 
「そうだ、麻衣子」
私が返事をすると兄ちゃんのクスクス笑う声が聞こえた。
「帰ったらまた、かくれんぼしような」
「うん!」四年生の頃の麻衣子が返事をした「帰りにアイスクリーム買ってよ」
「ああ、約束するよ。今度はひとり一個づつにしよう」
「絶対だよ!約束してよ」
兄ちゃんはハハハと笑って返事をすると電話は切れた。


 電話を切って周囲を見回した、すると話している間黙っててくれたのか、会話が終わると再び蝉時雨が聞こえてきた。それから私はひとり、五重塔を見上げた。私の位置から見るとちょうどてっぺんのところに太陽がある。梅雨の合間の晴れた暑い日、今まで雲に遮られた鬱憤を晴らすかのように照りつける、強く、厳しいくらいに。眩しさに目を細めていると、さっきまで流れていた涙はいつの間にか乾いていた。
 私は残り三枚のまだ内容が空欄のお約束カードを元の場所に戻した、
封筒に一言、メモを添えて――。

   見つけてくれてありがとう
   なお、このカードは有効期限
   はありません


  『おやくそくカード』  おわり