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短編集『ホッとする話』

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 暦は3月に入った。けれども冬の厚い雲は居心地がいいのかなかなかこの地域を離れようとしない。大雪で列車が止まることはなくなったが見渡すところにはまだまだ多くの雪が残っている。
 大石はいつものように乗降客のいない貝浜駅のホームに立っていた。雪は徐々に減って行くのを見ればそれだけ季節は動いているのだと感じられるが、春は、まだ来ない――。
 小夜の通う学校の授業も終わり、列車に乗る機会が減ったことや大石自身のシフトも合わないのがその原因で、二人は会えずにいた。朝に見かけることはあっても通勤客に混じっていて見かければ会釈するくらいで、特段に何があるわけでもなかった。
 あの時待合室の暖炉の前で話をして以来、大石は小夜の事が気になっていた。しかし、彼女とは10以上も離れているし、そもそもが駅員と乗客――それ以上でも以下でもない、強くは望んでいないが実現することのない思いに更ける事がしばしばあった。

 まだまだ寒い昼下がり、いつも通りに大石は一時間に一本しか来ない荒伏行の列車を貝浜駅に迎えた。
「寄房行き、発車……」
と言おうとしたと同時に後ろの両の扉がここに着いた事を忘れたように開くと、そこから一人の女の子が降りてきた、制服を着ていないから最初わからなかったが、小夜だ。
 大石は急に上昇した脈拍を抑え職務に徹し、たった一人しかいない乗降客の安全を確認して運転手に呼び声を上げると、列車は大石の変化に気づくことなく時間通りに荒伏に向けて去って行った。

***

 小夜は携帯電話をいじりながら大石の方へやって来た。今までの彼女が手にしているのは参考書の類いであって大石は少し違和感を感じた。声を掛けていいものかと複雑な心境が心の中で交錯する。
「おかえりなさい」
 それでも大石は声を掛けた。違う態度を取った方がかえっておかしいと思ったからだ。
「大石さん……」
大石の横を通り過ぎたところで小夜の足が止まった。
「はい、なんでしょうか?」
大石は驚いて小夜の方を見るが、彼女は携帯電話をいじったままこちらを向こうとしない。
「見て――、これ」
 小夜は携帯電話の画面を大石に見せた。今まで見なかった彼女の様子にちょっとビックリして携帯の画面を覗いた。
「あ、すごいじゃないですか!」
「あたし、受かったんです。大学!」
 画面に映っているのは満面の表情で合格発表のボード前に立つ小夜の姿だ。これを見た大石は勤務中であることも忘れてつい大きな声が漏れ出てしまった。
「あの時大石さんと話した内容、全部試験に出たんです」
「あの時?」
「試験の前日、待合室で話した内容ですよ!『コーヒーはかえって身体を冷やす』とか『シベリア鉄道の暖房は電気を使わない』って」
 小夜は思わず大石の右手を両手で取った。
「ありがとうございました」
 大石は喜ぶ小夜の顔を見ていたい、ホームには誰もいないのでそれが出来るが照れるあまり視線を合わすことができなかった。けれども握られた冷たいはずの手が温かい事を感じるだけで大石には十分だった。