短編集『ホッとする話』
「やあやあ、ごめんね。迎えに来てくれて」
走ること20分と少し、駅で寒そうに待つ夫を見つけ晶子は小さく手を振った。幸仁は寒かったのか、逃げ込むように助手席に乗り込むと手をこすり合わせている。
「タクシーで帰ると高くつきますから」
「それもそうだ」
夫によろしくと言われて車を発進させた。緊張の時間帯、晶子の背中は自然に運転席から離れていた。
普段なら走りなれたなんでもない道。しかし助手席に夫が乗っただけでその調子は一変する。加速、減速、ハンドルを切るタイミング――そのすべてが金縛りにかかったように一瞬遅れる。
「それじゃあお棺で寝てる人も起きてしまうがな」
笑えない。冗談のつもりで言っているのは分かるし、彼に悪気はない。しかし、この一言一言が晶子にとって苦痛にもなり苛立たせる要因になる。この悪循環、面と向かって夫に言えるはずもない。
どれだけ酔っていても、どれだけ疲れていても、夫は自分の運転で緊張の糸を解くことがない。いつだって助手席で目を光らせて周囲を見ているし、周囲に何もない車庫に車を入れるときでも夫は必ず降車して誘導をする。
本人がいうようにそれは職業病といえば職業病みたいなものだ。運転で食べている人なのだから、彼の動作は当然の動きなのだろう。
「ありがとうございます……」
車を降りると晶子は夫にお礼を言った。迎えにいったのは自分だ、だけど運転という作業は車庫入れで終わるのだから、帰ってきたときはいつも自分の方がお礼をいう。何でもない些細なことなのだが晶子はこれにはいつも納得がいかなかった。
それから幸仁は何事も無かったように日常の作業をして床に就いていた。明日も長距離の仕事があるので睡眠時間の管理はしっかりしている。晶子は夫の寝顔を見てなんとも形容しがたい気持ちを交差させた。
優しい夫にはかわりない、運転の苦手な自分を気遣っていろいろとしてくれるのは十分に分かっている。しかし、晶子にとってそれは望んでいる以上のものであり、夫の動作で自分の小さなプライドが傷つく――。
作品名:短編集『ホッとする話』 作家名:八馬八朔