相談屋
緊急に行われた手術にもかかわらず博士の執刀は見事なものだったと父は語った。片脳を失ったが赤子は一命を取り留め無事だったらしい。
まだ幼かった田宮は病院特有の無機質な環境の中で育つとともにそういった人命に直結するような生々しい話を聞かされてきた。両極端な環境は田宮の世界観や人生観に少なからず影響を与えてきたし、それは病院内にいる他の人間にとっても同じだろうと田宮は想像していた。
あてのない思考を繰り返すうちに目指す住所が近づいてきた。田宮は商店街の途中にある雑居ビルの端にくっついている階段を登り、相談屋と書かれたドアの前で立ち止まると一呼吸置いた。
目指す住所には雑居ビルが建っていた。建物の端にくっついている階段を登り、相談屋と書かれたドアの前で田宮は立ち止まり、一呼吸置いた。
ドアをノックすると「どうぞ」という声がしたので中へ入る。主はイスに座って新聞を読んでいる最中だった。
「先ほど電話した田宮です」
「そこのイスにすわってください」
田宮が机の前に置かれたイスに座るとようやく相談屋は新聞を降ろした。
照明がついていないので薄暗い。窓から差し込む光だけが頼りだった。
「相談内容をどうぞ」
相談屋は肘掛に両手を置いて、背もたれに体重をかけた。
「何から話し始めればよいのか・・・」
「どこからでも結構ですよ」
「こういうところに来るのは初めてなので、聞いておいたほうがいいと思うのですが・・・料金みたいなものはいくらぐらいなんでしょうか?」
相談屋はにこやかに答えた。
「料金は聞いてから決めます。正直言って具体的な基準というものはないので。でも、びっくりするような金を取るようなことはありませんから心配ありません。あくまで常識的な範囲です。もし話の内容が面白かったらタダになるということも有り得ます」
「そうですか。では・・・私は中野で産婦人科を経営しております。すでに亡くなっている父から継いだものです。そしてもう引退されているんですが、隣には多々良博士という方が住んでいます。脳神経の権威といってもいいぐらいその分野で活躍された人で、引退したあとも精力的に研究を続けていて、この方からある手術の助手をやるように依頼されまして・・・その手術というのは人間の脳の右半球を切除して別の人間の右半球と交換するというものなんです」
ここで田宮はいったん話を止めてこの突拍子もない話に対する相談屋の反応を窺った。
相談屋は話を聞いているというよりは、まるで田宮をじっくり観察しているかのように身じろぎもしなかった。
田宮が先を話さないのでようやく相談屋は肘をついて口に手をやると「続けてください」と言った。
「多々良博士は私の大学時代の恩師でもあり、世話になった方ですから力になってあげたいとは思うのです。この手術を手伝っていいものなのでしょうか?」
相談屋は少し間を置いて言った。
「なるほど。その多々良博士というのは面白い人ですね。しかし、どうなんでしょうね・・・田宮さんはその手術の結果はどうなると思いますか?」
「かなり専門的な話になってしまいますが・・・」
「ああ、大丈夫です。私は話を聞くことにかけてはプロですから。一般的な知識はすべて頭の中に入っています。もちろんどこどこの婆さんが昨日何を食ったとか、その婆さんの息子が十年前何をしていたのかなんてことはわかりません。あくまで世間一般に流出している情報や知識に限っていえばすべて知っています。もし、わからないことがあれば手を上げて聞きますので」
「・・・想像するに、おそらく何も起こらないと思います。人間の脳は、脳梁を切断した患者に対する実験でわかっているように右半球と左半球は独立して機能しているわけですから、片脳を失っても生きていられると思います。しかし、本来の脳ではない方、つまり移植される方の脳はどうなるかわかりません。多々良教授ほどの腕を持つ人が執刀するとはいえ、移植した脳を別の人間の神経系と繋げて再構築するわけですから、脳の機能が復活するとは思えません」
相談屋は手を上げた。
「つまり、田宮さんの見解は手術しても何も面白いことはないといったところですかね。しかし、おかしいですね・・・何も起こらないというのなら手術を手伝ってあげたらいいんじゃないですか?」
「それはまあそうなんですが・・・何も起こらないというのは私の単なる推測なので」
相談屋は腕を組んでしばらく考えてから口を開いた。
「仮に手術を受ける二人の人をA、Bとします。私が予想するに、手術の結果、元の脳しか機能しないと思います。脳の右半球を移植するわけですから、Aの人の左半球、Bの人の左半球だけが生き残ることになるわけです。もし、右半球の機能を復活させることができても脳梁がつながっていなければ左右の脳の意識が統合できなくて困るということもないでしょう。左右の脳は別の人格のものですからね。ただ、体の左右の動きの統制がとれないのでバラバラに動いてしまうという問題がありますが。まさか、脳梁までつなげて復活させるなんてことはないですよね?」
「そこまでは聞いていません。が、脳梁の復活は無理だと思います」
「田宮さん。あなたは聡明な人だ」
田宮は唐突に投げかけられた言葉に面食らった。
「脳に関してそこまで理解しているということは、もう、手術することを決めているんでしょう。しかし、それでもここへ来たということは、あなたは本当は止めてほしいんじゃないですか?」
相談屋は値踏みするかのように田宮の顔を覗き込んだ。
熱い。部屋の気温は夏の炎天下とは真逆のはずなのに、田宮は体温が急激に上昇していくのを感じていた。
田宮が言葉を失っているのを見て、相談屋は続けた。
「・・・相談屋なんてやってるとね、いろんな人がくるんですよ。若い人もいるし、年寄りもいる。相談内容も様々です。それを受けて私は色々アドバイスしたりするんですが、残念ながら相談屋は決めることはしないのです。わかりますよ・・・あなたが不安に思っていること、懸念していること。しかし、それでも決定するのはあなたです。私は止めるようなことはしません」
田宮は興奮を抑えて、顔を硬直させながら返した。
「あなたはひどい人だ。傍観するだけで済ませるつもりなんですから」
「すいません、相談屋としては介入したくないのです」
相談屋は優しく微笑んで言った。
「お代は結構です。面白い話も聞けましたし」
相談屋は立ち上がり自らドアを開けて田宮を送り出した。
雨音がはっきりと響く廊下に出た田宮の背後でゆっくりとドアが閉まった。
新造 二
診察に行く妻を見送った後、私は玄関にしばらく立ったままでいた。
磨りガラスの扉をすり抜けてきた太陽の光はもやもやとしていて、控え目に玄関に流れ込んでいる。それまで徹夜で原稿を書いていたせいか意識は朦朧としていた。
右手の壁に楕円形の鏡がかかっている。そういえば、また実家から新しい鏡を持ってきたのだと妻が言っていた。
閃いたときにはすでに私は玄関の引き戸をガラっと開けて外に飛び出していた。
路地を駅の方へ向かって歩くと右手に竹やぶが見えてくる。