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相談屋

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 私はさりげなく話を戻した。
 「あそこのお医者さんってどんな人なの?行ったことないんだけど・・・」
 「思ったより若いお医者さんだったわ。父親が始めた診療所で息子さんが後を継いだんですって」
 「へえ、じゃあけっこう長いこと続いてるんだろうなあ」
 私はその医院が細い路地の先に佇む様を思い出していた。
 灰色のブロック塀の奥にあるその建物はのっぺりとした飾り気のない見た目をしていて、敷地内にある大きな楡の木が枝葉を伸ばしているせいで表から見ると半分ぐらい隠れている。
 隣家との境界はどうなっているのか葉に遮られて曖昧だ。ブロック塀にもたれかかるように佇む電柱。その傍らに見捨てられたように置かれている乳母車。
おかしい。なぜか記憶の中にそれはあった。いったい、いつ記憶の中に差し込まれたのだろう、家からそれほど離れていないから前を通り過ぎたときに見たりしたのだろうか。
 一瞬、今日会った老婆のことを妻に話しかけようとしてやめた。あまり気持ちのいい話ではない。
 「ごちそうさま」
 私は食器を片付けて奥の和室へさがった。
文机に向かって原稿の続きを書き始める。目の前の縁側の向こうに申し訳程度にある庭は隣家との狭い隙間にあるせいで日当たりが悪く、常に湿度が高い。私は苔むして湿ったにおいを漂わせているその庭が好きだった。その沈降して地面近くに堆積していくような香りを嗅いでいると執筆作業が捗るのだ。
 数時間は経過しただろうか、原稿を書くことに漸く飽き始めた私が体をひねると右手には昨日までそこには無かった姿見があって、胡坐をかいて座る自分の体が映し出されていた。
 普段、私は鏡をあまり見るほうではない。たいしたこともない容姿を見る必要性がないからだ。そのせいか鏡に映る自分の姿を見る時に必ず違和感がある。自分はこんな顔をしていたのかとか、身長のわりには足が短いだとか頭の中のイメージと乖離していることに気づかされるのだ。それが嫌でますます鏡と距離を置きたくなっていく。
 それ以降原稿の進捗状況は悪化していった。 部屋の中にいるもうひとりの視線を感じる。その視線は自分のものであるはずなのに。
 いつの間にか夜は白んでいた。

田宮 一

田宮医師は机に向かっていた。
 格子状の窓から差し込む光がカルテの上に規則的な模様を映し出している。
 父の仕事を継いで二十年が経過しようとしている。その間の医師としての生活は何事も無く過ぎていった。
 何か大きな問題を抱えることは望むところではなかったが、足りないものがあることも事実だった。平坦な道に感じる不安は延々と果てがないようで静かに迫ってくる。辿り着く先も見通せない。
 診察室の扉をノックされる音がすると薄いガラスがビリビリと波打ち、部屋の空気が振動した。
 「どうぞ」と田宮医師が答えると黒い塊のような巨体が診察室へ入ってきた。
 脳神経外科の世界で活躍し、隠居生活に入っても多々良博士は精力的にみえた。
 田宮のような普段から抑揚のない、波風を立てない性格の人間からすると博士のギラギラとした野心や活力はまぶしく感じる。
 田宮の横に置かれた患者用の回転椅子に身をうずめると多々良博士は、腕を組みながら「実は手術検体が見つかってね」と短く言った。
 気持ちは決まっているといわんばかりの沈黙が二人の間に流れた後、田宮は答えた。
 「私はあなたのことを尊敬していますし、この診療所を建てるときに世話になったことも存じております。ただ、この手術の意義について聞いておきたいのです」
 「意義か・・・」
 多々良博士は田宮の頭の上にある空間を見つめながら話し始めた。
 「私は自分のことを医者とは思っていないし、ましてや科学者であるとも思わない。もちろん、世間的には医者として通っているがね。純粋な探究心が私を突き動かしている。それが人間の本質であり、その本能があるから人類は発展していくことができるのだと思っている。『シュレティンガーの猫』という思考実験を知っているだろう。猫の生死は観測するまで不確定であり、観測する以前は生と死が重ね合わさっている。今回の手術も同じだ。私は結果を気にしてはいない。結果以前が重要であり、全てであると思う。私は脳外科手術は勿論それ以外の手術も経験してきている。死体を解剖して体の隅々まで調べたこともある。しかし、どれだけ細かく調べてみてもどこにもこころというものを発見できないのだ。毛細血管の先からニューロンの先端まで調べてもだめだ。顕微鏡を覗いてミクロのレベルまで見てもまったくみつからない。この課題に挑まずに死んでいくのは忍びない。私はすべてが知りたいのだ。すべてを知り尽くして何の疑問も持たずに死んでいきたい。」
 博士らしい答えだと田宮は思ったが、胸の中にはまだドロドロとした懸念が渦巻いて仕方が無かった。
 「私は自分のことを医者だと思っています。正直言って有能でもないし、野心に満ち溢れているわけでもありません」
 博士は少しだけ表情を崩した。
「わかっているよ。君は有能な普通の人間だ。怪物じゃない」
 博士は内ポケットから手帳とペンを取り出すと何か書き始めた。ページを破り取り、田宮に手渡す。
 「ここに行ってみるといい。すべては主の御手の中にだよ」
 そう言いながら博士は力を込めて立ち上がると巨体に似合わない颯爽とした動きで診察室を後にした。
田宮は手帳に書かれた文字を見ながら、博士が神に祈る様を想像しようとしたが適わなかった。
やはりわからせるしかない。前進するしか手はないのだ。
 田宮はカルテをファイルに挟み戸棚にしまうと白衣を脱いでイスの背もたれにかけた。
 イスに座りなおしメモに書かれた電話番号をダイヤルすると呼び出し音がしばらく続く。ようやく電話口に出たのは男の声だった。
 「もしもし。今からなんですが大丈夫ですか?・・・わかりました。これから行きますので、はい」
受話器を置いて紙に書かれた住所を確認すると同じ中野区内だった。歩きでもそれほど時間はかからないだろう。
診療所の玄関を出て鍵を閉めると、ひとかたまりになった風が楡の木にぶつかって枝をざわめかせた。湿った雲が流れる空を背にして田宮は中野駅の方に向かって歩き始める。
この辺りは都内でも特に人口密度が高い。戦後、東京へ流入する人々が増加し、『木賃』と呼ばれる民間家主が経営する賃貸共同住宅に住むようになった。宅地所有者は老後を見据えた生活設計として、盛んにアパート経営を営み、増加する人口を吸収していく。そうして狭い土地に人と建物が密集する区域が出来上がった。限られた広さしかない以上、東京という場所はますます密度が濃くなっていくのだろう。
田宮が幼い頃から歩きなれた道を歩んでいると意識は遠いところに運ばれ曖昧なものになっていく。そんな時、田宮の脳裏に必ず浮かび上がるのは、父から生前聞かされた話だった。
多々良博士がまだ現役だった頃、父はその助手を務めており、博士の手術を間近に見ることで学んだり、経験を積んでいったそうだ。
ある日、産後直後に放置されたと思われる赤子が発見者によって運び込まれた。頭部を損傷しており、早急に手術が必要な状態だったらしい。
作品名:相談屋 作家名:吾唯足知