Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ
突然凄まじい力で腕を引かれて、リゼはバランスを崩した。踏み止まることは出来ず、前のめりになって倒れ伏す。同時に、足元の魔法陣を構成する肉の筋がぱっくり口を開けた。避ける間もなく、リゼは穴の中に飲み込まれた。
落ちた先は水の中だった。地底湖の水は悪魔の邪気にまみれていて、瞬く間に四肢に纏わりつく。それから逃れようともがいていると、少女とは思えない力でリゼの腕を掴むシリルが初めて表情を変えた。虚ろな表情から、目論見が成功した時の得意げな笑みへ。いや、シリルではない。彼女に取り憑いている悪魔が嗤っている。
――オマエモイケニエダ。
シリルの唇から、少女のものではない声が零れ落ちた。
――オマエモイケニエダ。
――ヒキズリコンデヤル。
――ミズウミノソコヘ。
――“門”ノナカヘ。
――地獄(ゲヘナ)ヘ。
――コノコムスメトトモニ。
――イケニエトナレ!
悪魔は嗤った。勝ち誇ったように高らかに。水中なのに、悪魔の嗤い声はうるさいほど響き渡る。それと呼応するかのように周囲の悪魔達も嗤い始めた。不快な嗤い声が合唱のように幾重にも重なって響く。甲高い、あるいはしわがれた不愉快な声に頭痛がする。頭を抱えて痛みに身体を折るリゼを、悪魔は高らかに嘲笑った。
(――いい気になるな)
悪魔に纏わりつかれながらも、リゼは意識を集中させた。奴らの思い通りになどなるものか。リゼはシリルの腕を握り返し、魔力を高めていく。渦巻く力が身の内から溢れ、光となって放たれた。
『虚構に棲まうもの。災いもたらすもの。深き淵より生まれし生命を喰らうもの。理侵す汝に我が意志において命ずる!』
悪魔祓いの術を唱え始めたリゼを見て、シリルに憑く悪魔は笑みを驚きと怒りに変えた。少女の整った顔を醜く歪め、悪魔は怒りのままに咆哮を上げる。腕に爪が食い込み放たれた衝撃波が身体を襲ったが、術の詠唱は止めなかった。
『彼の者は汝が在るべき座に非ず。彼の魂は汝が喰うべき餌に非ず』
光が暗い地底湖を照らし出す。悪魔は焦ったような咆哮を上げる。黒の衝撃波のせいで、身体には無数の細かい傷が刻まれた。だが痛みにこらえながらも、リゼは悪魔祓いの術を紡ぎ続ける。しかし、
『惑うことなく、侵すことなく――』
腕に食い込んだ指が緩んだかと思うと、シリルの小さな両手がリゼの喉に絡みついた。
――シネ。
途端、細い指がリゼの喉に食い込んだ。さながら細い紐で締め上げられているようで、頭に血が溜まって意識が朦朧となる。引き剥がそうにも、手はびくとも動かない。振り払うには骨を砕くなり切断するなりすればいいのだけど、シリルの身体にそこまでするわけにはいかない。容赦なく締め付けてくる悪魔を睨み返しながら、リゼは構わず詠唱を続けた。
『汝が在るべき、虚空の彼方・・・・・・我が意志の、命ずるままに・・・・・・疾く去り行きて消え失せよ!』
極限まで高めた悪魔祓いの術がシリルを包み込んだ。光が立ち上り、それに触れた悪魔が次々に消滅していく。悪魔祓いの術はシリルの中の悪魔を全て炙り出し、身体の外へとはじき出した。
『悪魔よ消え去れ!』
放たれた浄化の閃光が悪魔を貫いた。魚のような姿をした悪魔は醜く甲高い断末魔を上げる。真っ黒な身体は閃光が空けた穴からぼろぼろと崩れ、塵も残さず消え去った。
悪魔を貫いた閃光は水中を突き進み、触れた悪魔を次々と浄化していった。真っ黒な地底湖の中に、一筋の道が出来上がる。
――シリルを外に出さなければ。
力を振り絞って、リゼは風の魔術を唱えた。意識のないシリルを風の結界が包み込み、シャボン玉のように浮かび上がる。リゼはそれに浄化の術を纏わせると、水面に向かって打ち上げた。
結界は水面へ急上昇して、魔法陣を突き破って外へ飛び出した。これでアルベルト達がシリルを助けてくれるだろう。それから、リゼは自分も脱出しようと魔術を使おうとした。
だが風の魔術が完成する前に、身体からすうっと力が抜けていくのを感じた。突然首を絞められるような圧迫感と共に息苦しさを覚え、身体が鉛のように重くなる。重い。魔物に水の中へ引きずりこまれた時よりずっと強く、重たい水がのしかかる。身体が動かない。魔術を唱えようにも、冷たく纏わりつく水が集中力をも削いでいく。
――アキラメヨウ。
頭の中に声が響く。悪魔だ。悪魔が耳元で囁いている。リゼの四肢に纏わりつき、湖の底へ引きずりこもうとしている。
――アキラメヨウ。
――ウフフ。
――ソンナコトシタッテムダダヨ。
――アハハ。
――ムダナノニドウシテヤルノ? ソンスルダケナノニ。
――ウフフアハハ。
再び悪魔の声が頭に響く。嗤っている。大人とも子供とも、男とも女ともつかない声で嗤っている。振り払いたくても術が使えず、重い身体を必死に動かしても浮き上がれない。足掻きながら水面を見上げると、濃い闇の中にも関わらず、悪魔を吐き出す魔法陣がはっきりと見えた。そこから生える血管のような赤黒い管が、湖底に向かって柱のように伸びていることも。その先に、夥しい数の肉塊があることも。
魔法陣を作るために身を捧げた悪魔教徒達だ。
――アンナフウニネムリニツケタララクナノニネ。
また悪魔の囁きが頭に響く。うっとうしい。やめてくれ。空気を吸えなくて、意識が朦朧とする。身動きどころか、考え事もまともに出来なくなってきた。
――ツライコトナンテシタクナイ。
――ゼンブナゲダシテシマエタライイノニ。
うるさい。黙れ。そんなこと言っていられる状況じゃない。
――ニゲダシタイ。ホントウハコンナコトシタクナイ。
――ツライ。コンナウンメイヲセオワサレテツライ。
うるさい。
――クルシイノニダレモワカッテクレナイ。ダレモワカラナイ。
――ミンナジブンカッテニスガリツイテクルンダ。ヒトノキモシラナイデ。
――ソレガツライノニ、ダレモワカッテクレナイ。
黙れ!
――シンパイスルフリナンテイラナイ。ホントハソンナコトオモッテナイクセニ。
――ツライ。クルシイ。デモダレモリカイシナイ。ダレモシンヨウデキナイ。
辛い、苦しい。ここから出なければ。今すぐに。溺れてしまう前に。
――モウオソイヨ。モドレナイヨ。フツウニハナレナインダ。
――ドンナコトヲシテモムダナンダ。イッショウコノママ、ツライコトバッカリ。
出なければ。外に。出たいのに。
――ソレナノニ、ソトニデテドウスルノ?
外に、出て・・・・・・
――ツライナラ、
――ココデズゥットネムッテイレバイインダヨ。
出られない。ここから出られない。
誰か――。
澄んだ音を立てて交わった剣と槍は、火花を散らして互いに互いを弾き返した。
一度距離を取ってから、アルベルトは間合いを詰め、剣を横に薙いだ。刃はマリウスの胴を狙い、一直線に突き進む。しかし剣の前に割り込んだ銀槍がそれを阻んだ。槍は銀色の軌跡を描いて剣を跳ね上げ、穂先はアルベルトを狙う。胴をかすめそうになったそれを避け、アルベルトは剣を振り下ろした。
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ 作家名:紫苑