Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ
スミルナは巨大なため、そこから出る生活排水もまた膨大な量になる。洞窟に捨てられた排水は、耐え難い臭気とガスを発生させて、狭い空間を満たしている。しかしそれが及んでいない地域もある。洞窟の形状の関係で、汚水が流れ込まない綺麗な地下水が流れている場所がある。
「汚水が流れているのは一部分だけだ。脱出経路は綺麗な水が流れているはず。外を出るにはそこをたどっていけばいい」
「へえ、分かりやすいな。となれば、速く行こうぜ。さすがにこんなところに長居したくねえ」
今いるここは、地下牢で出た汚物を流す排水溝の中だ。しかし長年使われていなかったおかげか、堪え難いほどの環境ではない。とはいえ下水であることに変わりはないので速く出たいところではある。
「こっちだ」
上流の方を指して、アルベルトは歩き始めた。確かこちらに脱出路に行ける場所があったはずだ。遠すぎてあやふやな記憶を辿りながら、アルベルトは歩を進めた。
(こんなことが役に立つとは思わなかった)
昔、勉強になるからと養父の補佐の仕事を命ぜられたことがあった。といっても、見習いの身の上で出来ることは少なく、ほとんど養父の仕事振り見学しているだけだったが、おかげで多くのことを知ることが出来た。
その一つが、スミルナ地下洞窟の存在だ。
一般市民には秘匿されている地下洞窟。広大で複雑な岩の道の一部は街の外まで続いている。洞窟を通れば外部からの侵入が可能なことと、暗く汚れた環境が悪魔の温床になりやすいことから、地下洞窟の完全封鎖が何度も検討されたようだが、結局下水処理の代替案が見つからず封鎖には至らなかったらしい。そのため一時期養父は地下洞窟の地図に向かい、何度も効果的な警備配置を検討していたことがあった。
だから覚えている。地下洞窟には、一つだけ緊急用の脱出経路として汚水の通らないルートがあること。街の外へ続く道がいくつかあり、何人の騎士が出口を監視しているのかということ。そして、地下洞窟には一カ所だけ、汚水の流れこまない位置に巨大な地底湖があることを。
「それで、あの子の言うことが本当なら、ここにシリルと悪魔教徒がいるかもしれないんだよな?」
「ああ。悪魔召喚をするなら広い空間が必要なはずだ。スミルナの中心部にあり十分な広さがあり、なおかつ教会に見つからない場所。その条件を満たすのはおそらく一カ所だけ。この洞窟にある地底湖だ」
船で助けた替え玉の子供が教えてくれた。言葉を話せないのか無言で渡されたハンカチに、ゼノ曰くシリルの字で『行先はスミルナ』と記されていたのだ。これが間違いなくシリルの残したメッセージなら、彼女はこのスミルナにいるはず。少なくとも、この街に悪魔に関わる何かがいるのは間違いないのだ。
貧民街に流れ着いた時から気付いていた。スミルナを覆う悪魔の侵入を阻む神の力が弱まっている。他ならぬ悪魔の力によって。
「そこに悪魔教徒がいて、悪魔召喚をしようとしてるかもしれないんだよな。――シリルを生贄に」
「ああ。おそらくシリルは術の要にする気だろう。本当に発動したら、この街にいる人間全員が飲み込まれる」
「冗談じゃねえ。そんなことさせるものか」
ゼノの怒気の篭った声を聞きながら、アルベルトは考える。果たして、悪魔教徒の狙いは何だろう。神の祝福を受けた神聖都市を破壊することは、魔王(サタン)降臨の布石として重要なことではあるだろう。しかし、それにまずスミルナを選んだのは――
「――そうか。千年祭か」
「千年祭・・・・・・?」
アルベルトの呟きに、ゼノが首を傾げる。ミガー人の彼は詳しく知らないのかもしれない。
「約千年前、神の子によって魔王(サタン)が倒され、地獄に封印された。七年に渡る聖戦は終結し、神の子の手で神聖アルヴィア帝国が造られた。そのことを祝い、神の栄光を祈る儀式だ」
「ああそうか。来年は年号の桁が増えるんだもんな。でもそれが何か関係あるのか?」
「スミルナは神の子が降りる地なんだ」
神の子――悪魔を滅ぼす救世主。
「神の子は千年目の始めに悪魔に苦しむスミルナに降り立ち、神の力で街を救う。そして六つの神聖都市を巡って苦しむ人々を救い、最後に聖都エフェソへと向かう。スミルナは神の子が始めて悪魔と戦う場所として、千年祭でも特に重要な降臨と浄化の儀が行われるんだ」
「あーつまり、悪魔教徒にしてみれば、救世主が現れる前に現れる予定の街をぶっ潰しておこうって感じか」
「・・・・・・おそらく」
救世主たる神の子が現れるのは、千年目が始まる時。年が明けてすぐの頃になるだろうと、聖典には書かれている。年明けはもう少し先だから、預言通りなら神の子はまだ来ない。このまま悪魔教徒が悪魔召喚をするつもりなら、預言の時を前に先にスミルナが消滅してしまう。
「にしても神の子は中途半端なところに現れるんだな。神聖都市を巡るなら、エフェソか七番目の都市のラオディキアの方がいいんじゃないか。端っこだし」
「いや、神の子が群集の前に姿を現して、神の栄光をしらしめるのがスミルナだというだけだ。神の子そのものはそれよりも前に現れていて、密かに人々を救いながら神聖都市を巡っていたと言われている」
「はあ、ややこしいなあ・・・・・・」
神の子は、救世主はすでにこの世にいる。聖典の預言には、そう記されている。今、スミルナに悪魔憑きが増えているのは、救世主が現れるのはスミルナが悪魔に苦しめられている時だから? ならば現れるはずの救世主は一体どこにいるのだろう。預言された時ではないとはいえ、記述通りのことが起こるというならば。
「あー今更こんなこと言うのも何なんだが・・・・・・」
不意に、ゼノが躊躇いがちに言った。やけに真剣な顔をしているので、どうやら重要なことらしい。アルベルトは考え事を中断して、ゼノに何だと問い掛けた。
「・・・・・・おまえ、本当に悪魔祓い師なのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
――奇妙な空白が訪れた。
「あ〜!! 違うぜっ!? 今まで気付いてなかったとかそんなんじゃないぜ!? ただ実感がなかったんだよ! 悪魔祓い師の術のことなんてよく知らねぇから、聞き間違いじゃないかと思ったり!」
ゼノは慌てて手を振って、アルベルトの疑惑を否定する。ゼノのことだから本当に気付いてなくてもおかしくない気もするが、まあ口ぶりからして実感がなかったというのは本当だろう。反応に困ったのでとりあえず「その通りだ」と言って返すと、ゼノはしばし沈黙してから戸惑ったように呟いた。
「・・・・・・その・・・・・・イメージと違うんだよな」
ゼノはアルベルトをちらちらと見ながら、
「悪魔祓い師のイメージと。もっと偉そうで、ミガー人を人とも思ってないような。リゼとかティリーみたいな魔術師と仲良くしてるなんて信じられなくて」
悪魔祓い師なら、彼女らを助けるはずがない、と。
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ 作家名:紫苑