Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ
防がれようとも構わず、ティリーは魔術を畳みかけた。水晶の槍に続いて現れた重力魔術の陣に、マリウスの注意がティリーの方へとそれる。術者の集中が途切れ、悪魔の統率が乱れた隙に、アルベルトは素早く祈りの言葉を唱えた。身体を掴んでいる悪魔を祓い、拘束を解き放つ。すぐに剣を構え、祈りを唱えつつマリウスに向けて振り下ろしたが、あっさりと避けられてしまった。だが、アルベルトの目的はマリウスではない。避けられたのをいいことに奴の横をすり抜けると、アルベルトは湖に引きずりこまれかけているリゼに手を伸ばした。
しかしその瞬間、湖の中から黒い靄が飛沫を上げて現れた。行く手を遮るようなそれにアルベルトは踏鞴を踏む。それでもアルベルトは手を伸ばしたが、勢いを失ったそれは求めていたものではなく、何もない空間を掴んだだけだった。
いまだ目覚めないリゼはいとも簡単に水の中へ飲まれていった。湖中に開いた“地獄の門”に引き寄せられて、彼女の姿は見る間に遠ざかっていく。“門”の黒い闇の中。渦巻く悪魔に囚われて、姿も、その魂の輝きすらも黒に覆われて視えなくなっていく。
「悪魔を喚ぶには贄がいる。恐怖を、嫉妬を、驕慢を、悲哀を、怠惰を、憤怒を、憎悪を抱いた人間を」
(悪魔ヲ喚ブニハ贄ガイル。恐怖ヲ、嫉妬ヲ、驕慢ヲ、悲哀ヲ、怠惰ヲ、憤怒ヲ、憎悪ヲ抱イタ人間ヲ)
――アクマヲヨブニハニエガイル。キョウフヲ、シットヲ、キョウマンヲ、ヒアイヲ、タイダヲ、フンヌヲ、ゾウオヲダイタニンゲンヲ。
背後から聞こえた低い声に、いくつもの濁った声が重なっている。振り返ると、すぐそこに悪魔を従えたマリウスが佇んでいた。
「魔女も魔王(サタン)復活の礎となれるなら本望だろう」
(魔女モ魔王(サタン)復活ノ礎トナレルナラ本望ダロウ)
――マジョモサタンフッカツノイシズエトナレルナラホンモウダロウ。
いくつもの声をだぶらせた哄笑が響く。今喋っているのは一体誰なのだろう。マリウスか。それとも悪魔か。声はめまぐるしく入れ替わりながら響き渡っている。マリウスの背後に視線をやると、ティリーが倒れ伏しているのが見えた。やはり魔術では敵わなかったか。ゼノとキーネスが、彼女を助け起こしている。再び増え始めた悪魔の渦の中、聖印の結界がかろうじて彼らを護っている。だがそれももう持たないだろう。悪魔を浄化しない限り。この際限のない悪魔の出現を止めない限り。
衰えていた悪魔の湧出が、少しずつ勢いを取り戻していく。不気味な赤い光が輝きを増していく。“門”がリゼから力を吸い取っているのか。湧出が緩やかなのは、まだ彼女が完全に飲まれていないからか。“門”の縁では、地底湖の水が滝のように流れ落ちている。悪魔を吐き出すかたわら、“門”は周囲のものを貪欲に飲み込もうとしている。その流れる水の中に、銀に光るものがあった。
――そうだ。
流れゆく銀色を見た瞬間、アルベルトは身を翻した。剣を納め、銀に光るそれを掴む。掌に伝わる冷たくなめらかな感触。表面に施された精緻な文様。掘り込まれた正五芒星が水にぬれて光っている。だが、その輝きは鈍い。悪魔の穢れで銀槍は黒ずみ、本来の輝きを失っていた。
「神の名の下に正し清めよ。穢れなく歪みなく、無垢なるものと為らんことを!」
アルベルトが祈りを唱えた瞬間、銀槍の表面に光が奔った。黒い穢れが弾け飛び、銀槍は輝きを取り戻していく。正五芒星が銀に煌めき、聖なる力を取り戻すのを感じた。銀槍はマリウスの手にあった時よりも強い煌めきを放ち、地底湖に閃光を奔らせる。アルベルトは銀槍を逆手に持ち帰ると、“地獄の門”めがけてそれを振り上げた。
“門”が彼女を囚えているなら、“門”そのものを破壊するしかない。単純な方法。だが、相応の力がなければ為しえない方法。騎士の剣では無理だ。だが悪魔祓い師の銀槍があればできるかもしれない。そこに賭けるしかなかった。
「神よ、我に祝福を。汝は我が盾、我が剣なり。その栄光は世々に限りなく、あまねく地を照らす。至尊なる神よ。その御手もて悪しきものに断罪を!」
祈りの聖なる力が“門”に向かって迸った。聖なる力は“門”を駆け巡り、悪魔を消し飛ばしていく。全身全霊を振り絞って、アルベルトは祈りの力を注ぎ込んだ。果たして自分一人の力でこの門を破壊できるだろうか。リゼを囚える闇を祓えるだろうか。手の中で銀槍が熱を持って震えている。“門”からほとばしる悪魔の力が異物を排除しようとしている。“門”を破壊する前に、銀槍の方が先に砕けてしまいそうだ。だがもうすぐ届く。“門”の闇が浄化されて吹き飛んでいる。その先に垣間見える魂の輝きを、アルベルトの眼ははっきりと捉えていた。
しかし、手が届きそうになった瞬間、身体がバラバラになりそうな程の衝撃に襲われた。一瞬気を失いかけたが、気力で意識を留める。しかし槍の方は耐えきれず、甲高い音を立ててバラバラに砕け散ってしまった。
武器がなくなり、祈りの聖なる力は霧散して消えてしまった。その途端、噴き上がる黒い靄が、アルベルトが削った“門”の綻びを埋めていく。傷ついた“門”が瞬く間に修復されていく。それと共に、闇の中に垣間見えていた陽光のような輝きが、再び黒に覆われて視えなくなっていった。
アルベルトは使い物にならなくなった槍の残骸を放り出すと、ためらうことなく“門”の闇の中へ手を突っ込んだ。冷たく絡みつくような感触に怖気を覚えながらも、それでも暗闇の中に手を伸ばす。そうしているうちに、アルベルトの右手へ、腕へ、湖水に浸かった胴体へ、“門”の闇が浸食し始めた。祈りが間に合わない。剣を抜くことも出来ない。ロザリオの力はあまりにも小さく、浸食を阻むことは出来ない。マリウスの勝ち誇ったがのような嗤い声が、悪魔の不明瞭な叫び声が、耳元で煩いほど響いている。ともすれば意識を持って行かれそうになりながら、それでもアルベルトは手を伸ばした。そこにいるはずの、太陽のような輝きを持つ魂を救うために。そして、
「リゼ!!」
彼女の名前を呼んだ瞬間、暗闇の中に伸ばした右手にやわらかいものが触れた。
蒼い閃光が地底湖から迸った。それと同時に、悪魔が噴き出す黒い穴が音を立てて凍り付いていく。氷は瞬く間に湖面を広がり、“門”に吸い込まれる水の流れもそのまま銀の結晶となって静止した。閃光と共に弾き飛ばされたアルベルトは、凍りついた湖面の上でなんとか立ち上がりながら、銀の世界と化した地底湖に視線を巡らせる。ティリーも、ゼノも、シリルも、キーネスも、仲間たちは誰一人氷漬けになっていないのに、不気味に蠢いていた魔法陣や悪魔達は皆氷の中に閉ざされている。それはマリウスも例外ではなく、腰のあたりまで氷に飲み込まれていた。
「ええい! 何だこれは!? なぜこんなことが出来る!」
徐々に広がっていく氷に抵抗しながら、マリウスは苛立たしげに吠える。散々その眼で見ていたはずなのに、マリウスには信じられないようだ。悪魔を使役するのではなく“浄化”する、リゼの力を。
「これもあの魔女の仕業だというのか! 何故!?」
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ 作家名:紫苑