Modern Life Is Rubbish ギリシャ旅行記
それから、私は余計に彼から目が離せなくなった。いや、もっと言うと、目で追っていた。つぶさに観察していた。顔の輪郭や肌。これらは女性のようだった。手や足の大きさ。肩幅。すべて、骨組みは、女性サイズだ。
それでも、彼女は精一杯、男性であるように振舞っているのだ。身のこなしから表情まで、彼は立派な男性だった。
私が目にしているのは、性同一性障害というものなのだろうか?
単なる興味で彼を観察し続けるのは失礼すぎる(おそらく彼というほうが失礼にあたらないのだろう)。
そして決めつけるのも失礼であることもわかってはいる。
しかし、彼は本当に美しかったのだ。
女性の私から見ても、顔立ちから何から造形が美しかったし、何よりその表情はきらきらと輝いていた。
観察し続けるのは失礼にあたると、私は彼から目をそらし始めた。しかし、時折、気になっては目で追ってしまう。
すると、何やら彼は相手のガーリー女性を怒らせてしまったらしく、女性がフロアから去っていき、それを彼が追いかけている。つかまえて、何やら話しこんでいる。彼は女性の目を優しく覗き込み、大丈夫だよ、と伝えている、そんな雰囲気である。
ここからは私の勝手な想像であるが、彼は女性であることを、相手のガーリー女性に伝えたのではなかろうか。そして、ガーリー女性はびっくりしたのとショックとやらが入り混じって、フロアから去ろうとした。それで、彼は「ちょっと待ってくれ。ちゃんと僕の話をきいてくれ」と引きとめた。
とにかく、穏やかな雰囲気で話をしていたようであるが、仲直りはできたのだろうか。
そんなこんなで、踊っていたら、時刻は朝の4時を過ぎていた。そろそろ、帰ろうか。クラブを出る。外はまだ薄暗い。
と、ちょうどそのとき、駐車場の下り坂を、仲良く肩を組んで下りていくカップルが見えたのだ。それは、まぎれもなく、あの赤いバンダナの美しい彼とガーリー女性のカップルだった。
仲直りできたんだ!
私は心から嬉しかった。
さて、ここからが問題である。バギーはガス欠である。どうやって帰るか?
明け方から、バスが定期的に来るはずだから、待つしかないよね。それで街に戻ってガソリン・スタンドでガソリンを買ってこよう。
例のジャンク・フード店のテーブル席に座る。夫はとりあえず煙草をふかす。ふぅ。
と、そのとき、ジャンク・フード店の横のカヴォ・パラディッソに向かう階段のところで、何やら女の大きな泣き声が聞こえる。見ると、一人の女性客が座り込んで立ち上がれなくなっており、男性警備員スタッフ二人で体を支えてあげて対応している様子である。 「足をくじいちゃったのよー。わんわんわん。一人で歩けないー。わんわんわん」
大声で泣くその女は、またしてもあのトイレ騒動兼レズビアン女だった。金髪の中年女性が、いったい何をわんわんやっているのだ。
すると、もうそんな時間になったのだろうか、バスが1台駐車場に入ってきた。私たちはバスに駆け寄る。
「もう、バスに乗れるの?」
「いや、まだだ。5時からだ。とりあえず5時からのために、今来ただけだ」
がっくりとして、ジャンク・フード店に戻ろうと歩き始める。ただ、5時からはバスが動く。それが確定したことが私たちに小さな希望を与えたところだった。
と、そのとき、あのパーキング・ガイが現れ、私たちに声をかけた。一見、何の変哲もない彼ではあるが、依然、彼からは特殊な、というか異様な空気が放たれていた。
「おお、君たちのこと、覚えてるよ。大丈夫そうか?」
「うん。バスが、今は出ないらしいんだけど、後で出るらしいから・・・」
「俺がいったん街まで連れてってやるよ。カム・ヒア!」
彼は言葉少なにくるりと背を向け、自分の車へと私たちを誘った。
その背中は潔く、ある種、感動的ですらあった。
私たち夫婦は思わず目を丸くして、「えっ?!」と顔をみあわせた。
あの頼りない、何を考えているか一切不明のパーキング・ガイがまさかこの最後の最後に親切にも私たちを救ってくれるなんて。
「どこのホテルだ」
「ペティノス・ビーチ・ホテル」
「オーケー、場所わかるから」
無駄のない動きと会話で車は出発する。車は私たちのまったく知らない細い裏道のようなところをするする通り抜ける。
「近道だ」
「地元の人なの?」
「そうだ。ミコノスに住んでる」
「冬も?」
「そうだ。妻と娘がいる」
「学校、あるんだ」
「ある」
「生徒は何人くらい?」
「1クラス20人くらいはいる」
「仕事中だったでしょう?駐車場の。抜けちゃって大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。あの仕事も結構きついけど、給料安いんだ」
「へぇー。どのくらい?」
「一晩やって50ユーロだよ」
「うーん。それは確かに安いといえば安いね。でもギリシャでは普通くらい?」
「よくわからん。でも俺は妻も娘も養わなくちゃいけない。ミコノスの物価は高い。その生活に対してはやはり安い」
「うんうん」
そんな彼の事情をきいていたらあっという間にホテルに着いた。
「20ドルだ。2人あわせて20ドルでいい」
ん?
私たちは再び顔を見合わせた。
そういうことか。合点がいった。それでも確かにお金を支払う価値はある。足がなかった私たちを救ってくれたのだ。私たちは喜んで20ドル払った。きっとあの生活苦しい話も、伏線だったのだ。そう思うと、笑えた。この謎のパーキング・ガイも、結局は金銭欲なのだ。なんだか微笑ましかった。
彼はお金を受け取ると、さっさと仕事場である駐車場に戻っていった。
これがおおよそ朝の4時半。私たちは深く短い眠りをとった。翌朝8時にはホテルを出る必要があった。さらに、その前にガソリンを買ってカヴォ・パラディッソまで行き、バギーに投入して、バギーを無事に返却する必要があった。その任務は夫に任せ、私は荷造りをした。
なんとかすべてが間にあって、私たちは無事ミコノスの空港にたどり着いた。
作品名:Modern Life Is Rubbish ギリシャ旅行記 作家名:夏目 愛子