霧雨堂の女中(ウェイトレス)
そこに立っていたのは吸い込まれそうなとび色の瞳をした、信じられないくらいの美人だった。
女の私ですら思わず固まってしまう。
陶器のように滑らかな肌と、飴色を思わせるような茶が混じった黒髪は本当に柔らかなウェーブがかかっている。
しゅっとした背は伸びやかなのに、コツコツと歩くその姿勢からは猫のようなしなやかさを感じる。
彼女は、まっすぐ窓際の席まで歩いて腰掛けると、手元のメニューをぱらりと開いてその中に視線を落とした。
『完全美人』という言葉が私の脳裏に浮かんだ。
同性として、外見上でここまで鮮やかに差をつけられるともう呆れ返るというか、例えば嫉妬の念などはそもそもそんな余地がないので湧きようがないのだなあ――としみじみ思った。
――もっと近くで見てみたい。
そんな奇妙な欲求すら感じるほどだ。
そして私にはそうする特権が実はある。
なにしろ私はこのお店のウェイトレスなのだ。
いらっしゃったお客にはお冷とおしぼりを出して、注文を聞くという重大な義務があるからだ。
かくして、早速私はトレイにお冷とおしぼりを載せて、有名人のもとへ近づくような微妙な緊張を覚えながら、窓際の彼女の席へと歩いた。
「いらっしゃいませ」
と改めてそう告げて、彼女の前にお冷の入ったコップをそっと置く。
その瞬間脇目でその横顔を盗み見た。
やはり、とんでもなく美しい。
今まで見てきた人の中でも抜群といって間違いない。
いつか来た『雨女』の人も相当綺麗だったけど、ちょっとこの人の場合はベクトルが違う。
人間離れして、まるで神話の中から抜け出したみたいだ。
ただ、その時になってはじめて私は違和感を感じた。
総じてこの人が醸し出す雰囲気に飲まれていたのでそれまで気が付かなかった――否、気が付くことすらできなかったのだが、それはこの人の『着衣など』だった。
まず服装。
まるで古い探偵モノ、例えば映画のフィリップ・マーロウが着ているような、古めかしいどこで見つけたのかというようなトレンチコートを着ている。
これはとんでもない違和感だ。
あんな映画以外でこんな服を着ているヒトを、私は再放送されていた昔のテレビのコント以外で見たことがない。
そしてもうひとつがマスクの存在である。
マスクそれ自体はこのご時世誰でもがつけていると思う。
実際私もマスターもつけているし、たまにいらっしゃるお客の着装率もほぼ100パーセントだ。
だけどこの人の場合、明らかにサイズが合っていない。
小顔のわりにマスクが巨大、大きすぎるのだ。
そのせいで折角のお顔の目元から下がほぼ完全に隠されてしまっている。
逆に言えば、それでも美人に見えてしまうというのはとんでもないことなのだけど。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名