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霧雨堂の女中(ウェイトレス)

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曰く、

マスターはあの日、珍しく町中でお酒を飲んで、少し酔っていたらしい。
帰宅する頃にお店に忘れ物をしたことに気がついて、戻って来はしたものの、霧雨堂は街灯と街灯の間に位置していることもあり、やや薄暗い場所であったため、お酒に酔ったマスターはなかなか鍵を開けきれなかった。
そうこうしているときに、ふと通りすがりの野良犬に襲われかけたそうだ。
ちなみにこの時マスターは翌朝に食べようとコンビニで買ったハムとレタスのサンドイッチを持っていたらしい。
マスターはお店の鍵を開けた直後だったと言うことで、野良犬からはそのまま命からがら逃げ切ったものの、疲れ切ったことに加えて急に走ったことでお酒のまわりが酷くなり、帰宅直後玄関でそのまま眠り込んでしまったらしい。
だから、顛末が分かった以上それより先に私が何か言うべきことなどは本来はない。
だけど私にはもう少しマスターのこの様子を伺ってみようかという意地悪な興味があった。
なので、怒ったふりを続けてみた。
すると、
「時給・・・少し上げるから?」
微妙な笑顔を作りながらマスターがそう呟いた。
「そんなこと、別に必要ありません」
それは私の本心だった。
お金がいらないという意味ではないのだが、話がそういう風に転ぶのは私の本懐ではない。
それでも、怒りの演技もそろそろ潮時だとも思っていた。
場の空気を極端に悪くしても仕方がないし、何もなかったので、そもそも本当に私は怒ってもいないのだ。
以後同じようなことがなければそれで良い。
マスターがこうして頭を下げてくることがなければ素通りしただけの案件だったかも知れない。
「別に良いですよ」
だから私はさっくりとそう告げた。
「特に何もありませんでしたし」
「いや、良くないよ!」
マスターはそう言って、左の掌の上に載せられた一枚の紙幣と何枚かの硬貨を私につきだして見せた。
それはこの間のお客が残していったコーヒーの代金だ。
「だってあやめ君は接客をしてくれたわけだし、それはそもそもこの店を閉めていなかった僕のせいだよ」
そう言いながら、マスターは突然はっとしたように自分が差し出したお金に目を落とした。
そして、急にぐっと自分の右手を差しだして私の右手を取り、引っ張ると、掌を上向きにしたかと思ったら、その上に自分が左手に持っていたお金を載せて、指を握らせた。
「それならせめて、これを取ってもらえないかな」
あっけにとられる私に向けてマスターはそう言い、冗談ぽくウインクした。
その束の間、私の脳裏に先日のお客さんの姿が――自称『サトリ』さんの姿が――よみがえった。

ほんとうに、このあんぽんたんがあのお話の『マスター』と同一人物なのだろうか。

でも、

私はそのまま左手をエプロンのポケットに収めて、その中で握っていた手を開いた。
小銭が落ちるちゃらんという音が布中からこもって小さく響いた。
「マスターがそれで良いのなら、私は全く問題ないんですってば」
私はそう言って、空いた右手の人差し指でマスターの左腕の辺りを軽くつついた。
「そう言ってもらえると助かる」
マスターはそう答えて、やっと薄く笑った。
「ところで、彼は元気そうだった?」
不意にマスターがそう尋ねた。
私はそれで、先日の紳士のことを思い出しながら、
「ええ、とても」
とだけ答えた。

そのとき、カランとお店のドアにつけられたベルが鳴る音がした。
ふと目を向けた壁のアナログ時計は午前10時半頃。
小さな街の喫茶店で、来客のポケットとなる時間で、ふと、彼らはやってきた。

「いらっしゃい、ませ――」