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霧雨堂の女中(ウェイトレス)

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その言葉に瞬間私がぽかんとすると、『では失敬』と告げて今度こそその紳士は扉を開き、霧雨の町へと出て行った。
私の脳裏に浮かんでいたのは、お母さんの姿だった。
なんだか狐につままれたよう気分だったが、ちょうどそのタイミングでレコードの音楽が鳴り終えたので、私はターンテーブルのスイッチを切った。
そしてそのまま扉の鍵をかけ、店内の明かりを落とした。
たちどころに霧雨堂の中はさっきの老紳士が立ち入る以前の薄暗がりに戻った。

キッチンとサイフォンを片付けて、私はまた二階の自室に戻った。
モノらしいモノがほとんど無い私の部屋の角に、充電器に差されたガラケーがぽつんと取り残されていた。
黒い二つ折りの本体の表面で点滅し光る緑色のLEDが、私が不在の間に着信があったことを告げていた。
ぱかっと開くと、そこにあった名前は、私がついさっき目にしたはずの名前だった。

――さっき、何か言い忘れたのかな。

その名前は私にとっての愛だ。
私を支え、優しさで包み、必要な時には背中を押してくれる優しい手のような存在だ。

でも、だからこそ。

言葉はどれだけ丁寧に使ったとしても、いつも正しく伝わるばかりとは限らない。
いつでも伝えることが出来るとは限らない。
だけど、私は伝えるべきだ。
伝えるべく、努力をするべきだ。
だって私は悩むために生きている訳じゃない。

私は与えられてきた愛に応える必要がある。

でも、

――何から話そうかな?

そんなことを思いながら、ガラケーの画面に映し出される名前をそっと眺めた。

悟り、悟られ、あるいは思い、言葉を紡ぎ、それを伝える。
故にヒトはきっと、いつもどこかで繋がる。
発信ボタンに指をかけ、押し込むつかの間、私はお母さんのことを考えた。
理解してもらえることに疑いはないけれど、胸が少し高鳴るのは、私が真実お母さんを想うからこそだ。
あらゆる情念を持ってしても、時に『言葉』はそれを無くして伝わることばかりではない。
言葉は声で、声は発しないと生まれない。
せめて精一杯、きちんと伝わるようにと私は居住まいを正した。
受話口の向こうで何度か発信音がした後で、小さくぶつっと音がして、相手が電話に出たのが分かった。
私はすうと軽く息を吸い込み、結局、想うがままに話を始めることにした。

話すのだ。

今の私を。
ここにある私を。
至るまでのいきさつを。

そして何より、
感謝の気持ちと愛と、
『あなたへの信頼がどこまでも続いている』という、
私の中に絶えず在る、どこまでも端的なこの事実を。



「あ、お母さん。あのね――」


<『声と女中と霧雨堂』了>