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霧雨堂の女中(ウェイトレス)

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もう一度だけ小さなため息をつくと、私は食事を済ませたお皿を持って、壁沿いの細い階段をとんとんと降りて霧雨堂のキッチンに入った。
閉めている店内は薄暗く、もちろん人気もないから、静かな空間はどこか昔の白黒映画だとか、絵画のようなたたずまいに感じられた。
マスターは他所に住まいがあるので、今のここには私だけだ。
流しに持ってきたお皿を置いてカウンターの向こうに回りながら、私はふと隅に置いてあるたたんだ黒いエプロンを手に取った。
いつも私はこれを来て働いているわけだが、今日は別に身につける必要はない。
だけど、何となく私はそれをジーパンに青いTシャツという『休日仕様』のラフな格好の上にひょいと纏ってみた。
そして、窓際のテーブル席まで歩いて行き、椅子を引くとそこに腰を下ろした。
頬杖をつきながら首を傾け、改めて窓の外を眺めた。
霧雨の町は淡い灰色の中に沈み込んでいて、ゆるゆるとした見通しのきかない視界は、

−−なぜだか今の私には、どこか優しげに見えた。

そんな風にぼんやりとしていたからかも知れない。

カラン、とお店の入り口である木製のドアに取り付けられていた古いベルが鳴ったので、私は少なからず驚いた。

−−え、鍵・・・かかってなかったの?

そう思って私が見ると、ドアの付近には白髪で初老の男性がワイシャツの湿った袖をぱっぱと手でぬぐいながら立っていて、きょろきょろと店内に目を回しているところだった。
そして、真鍮のようにくすんだ金縁をした丸眼鏡の奥にやや落ちくぼんだ目をした細面の顔が、お店の中で座る私を見つけた。

「やあ、すみません」

その男性はにこりと微笑むとそう呟き、真っ直ぐ歩いてカウンターに向かい、スツールの上にひょいと腰掛けた。

それで、私は固まった。

−−ええと、今日はお休みなんだけど、
 明かりのついて無くて人気のない様子を見ているはずなのに、
 この人は絶対それを理解していない。

 もちろんお店の主たるマスターはいない。
 住み込みの私はたまたまここにひとりきり。
 悪い人じゃなさそうだけど、『お店』は私が『勝手を出来るトコロ』では決してないので、

 やはり、
 ここは、
 −−そうだ。

わずかな逡巡の末に意を決して私が『本日お休み』であることを告げようと椅子を立つと、まさにそのタイミングで

「ホットを一つ、お願い出来ますか」

と、『ヒトの穏やかここに極まれり』と言った口調で、この老紳士はぽつりとそう呟いた。

何か言う前に、うっかりそれを聞いたのがまずかった。

私はそれに、

「あ、はい」

と本当に思わず、川に落ちた木の葉が流されるように、注文を取るウェイトレスのように、ごく当たり前に反射的に応じてしまったのだ。