霧雨堂の女中(ウェイトレス)
でも正直なところ、ガラケーの『通話』ボタンを押すのには勇気が必要だった。
本当に妄想っぽいけれど、そのボタンを押した瞬間に、『今の私の何もかも』がお母さんに筒抜けになるような気がしたからだ。
怖かった。
『怒られるのではないか』とかそういったことではなく、むしろ『悲しませるのではないか』と思ったからだ。
お母さんは私が勉強に勤しんでいると信じているのだろう。
まさかここでこんなことをしているとは夢にも思ってはいまい。
それに電話ひとつでそんなことが知れるはずもない。
そうは思うし、分かる。
思うのだが、押すその瞬間にこの『通話』ボタンは、私の気持ちや考えから辿った時間、果ては現在の居場所まで一瞬でお母さんに届けてしまう魔法のスイッチであるように思えて仕方がなかったのだ。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名