霧雨堂の女中(ウェイトレス)
私には父親はいない。
労災で、小さい頃に亡くなったからだ。
だから私には父の記憶がほとんど無い。
漠然と『頭を撫でてくれる手が大きかったなあ」とか、『背が結構高かった気がする』とか、『なんとなく、笑う時には本当に大きく口を開けていたように思う』とか・・・そんなことくらいしか印象が残っていない。
申し訳ないけれど、父は『家族としてのイメージ』がほんとうに希薄なのだ。
私を助けてくれて、支えてくれたのはいつだって私のお母さんだった。
しかしそれでも、保険金で私たち母子の生活を支えてくれたと言うことでは『父の援助』は今もって生きている。
ともあれ、そのような事情で私には『家族』と言えば現在お母さんだけであったし−−着信が鳴った時点で思ったことだが−−そもそも私に電話をかけてくる相手は、今ではお母さんくらいしかいなかった。
学校を休学したときから、私が『大学の友人』と思っていた人たちはほぼ一切連絡が無くなった。
でも、それもそうかも知れない。
みんなそれぞれ自分の生活があるわけで、しかも自由な時間は限られる。
その中で『必要なヒト』に割く時間は大切ではあるが、『そのカテゴリから一歩出たヒト』に対しては『優先順位のようなモノ』は必然下がってしまう。
きっとあれらの人たちと連絡を取らなくなったのは、そうした理由に違いないと思う。
だから今の私の生活はここでマスターとふたり、お客様の相手をするのがほとんど全てで、大きな目で言えばそこに『目新しい何か』は求めようもない。
−−と言えば実は語弊があって、このお店には結構『ユニークなお客様』がやってくるのだけれども、この際それは別論。
なので電話のメロディを聴いた瞬間、相手がお母さんだと察すると同時に、私の中に罪悪感に似た薄暗い感覚がわき上がった。
何しろ私は実家を出て一人暮らしで大学生として勉強していることになっているのだが、実際にはさらに居たはずの所からこっそり引っ越して、学校を休学した上にアルバイト生活をしているのだ。
お母さんはいつだって『私のことは気にせず、いつだってあなたがそのとき本当に好きなことをしなさい』と私に言ってくれた。
言い訳がましくなるが、だからこそ私は現在のような『暴挙』に出ることが出来た。
自分が感じたことについて、生き方の舵取りについて、思い切ることにためらわなかった。
『人生は寄り道の方が大切なんだから』とお母さんはよく言った。
それは静かな言葉の中に沁み入るような優しさとか、そういったモノをいつでも含んだ冬の毛布のような暖かみがあり、惑う時には私の背中を押してくれる『頼りになる手』のようだった。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名