韓国客船に乗り合わせて
「いや、とんでもない脱出なんかしていない、生徒を置いていけるはずがないじゃない!」
「治美、早く逃げろ。でないと自分も助からなくなるだろ!」
「もう遅いかもよ、あの後船が大きく揺れて私は下の階に振り落とされた。そして、上には行けなくなっている」
「治美・・・」
「うん、まあパクヲムの声が聞けたからよかったかも?」
「いまどこだ?」
「あ、そうそう地元の海洋警察に連絡してよ、私と中学生の男の子は、セマルル号の甲板の直ぐ下の客室にいるって」
「客室?そこから甲板まで行けないのか」
「行けないよ、通路にはびっちり荷物とか詰まっているし、おまけに自動販売機とか大型の機械まで倒れ落ちてて、通路がふさがっている」
「そんなに厳しいのか。それで、船窓を割って、そこから出ようってか。」
「そうだから、私が船窓にいるって地元の海洋警察に伝えてよ」
「いま治美たちがいるのは何っていう部屋だ、あるいは何号室だ?」
私は入り口の枠の外側を見て、客室の番号が無いかと探した、”あった”
「あった、あったわ、310号室って書いてあった」
「分かった、切るよ直ぐに地元の海洋警察にこのことを言うから、ああそれから」
「それから何?」
「チェジュ港にさっき電話してセマルル号の状態を聞いたけど、『霧かなにかで航行が遅れたけど、間違いなく到着するだろう』とか呑気なこと言っている。」
「ああ、もういいから」
「治美、愛しているよ、会いたい。なんとしても助かってくれ」
*****
電話を切ってから、チェ君と二人切りになってしまった。こんな状況なのに、思考の慣性というものだろうか、スジンとチェ君の中を繋いであげたいという部分が相変わらず、私の心の隅に残っていた。
そう、スジンは今の恋を失えばもう二度と恋を捕まえることは出来ないと思っているのだろう。そして、チェはそのことをそれほど分かっていない。でももしかしたら、この二人はいまの危機を乗り切って生きて、インチョンに帰ることが出来て、微笑ましくも爽やかな恋を実らせることが出来るかもしれない。私の思考の慣性の結末はそうなる。
「救助艇がもう少し近づくまで何も出来ないわね」
「そうだな、確かに」
「チェ君を好きな子は誰って言ったけ?」
少し顔を赤くしたチェ君は、ちょっと慌てて「ああ、あのスジンだろ?」
「今頃どうしているかねえ?スジンは?甲板の上で救助を待っているだろうねえ」
「ああ、そうだろうさ、きっと」
チェの右手を見たら、しっかりと窓枠を握りしめていた。目も大きく見開いて、海上を動く救助艇を探しているようだった、そこにスジンが現れろっと祈っているかのようだった。
「じゃあ、この船窓を見ていたら、救助艇に乗り込むスジンを見ることが出来るわよねえ、きっと」
「そうだね、でも先生、ほかの生徒は本当にどうしているんだろう?何人くらい脱出したんだろう。」
「以外とこの船は救助艇が来るまで沈んだりしないかもだよ、だって乗員は『下にいて下さい』って言っていたんだから」
「先生、それ本気でそう思っているの?そんな気楽なことを。だいたい韓国のテキトーなところが嫌いでしょ」
「ああ、まあそうだけど」
「チェ君はお父さんが学校に乗り込んできて、私を殴ろうとしたとき、私をかばってくれたわよね、あのときはどんなけんかをしていたの?」
「あれは、前から父さんは僕が日本人の先生と親しくしているのを気に入らなかったんだ。それでも前の日に先生から教えてもらった日本のことわざのことで喧嘩したんだよ」
「ああ、なんか言ったかな?」
「言ったじゃないか、日本の侍のことわざって、なにがあるっかって僕が聞いただろ」
「ああ、日本の武士の有名なことわざで、『武士に二言は無い』ね」
「そう、日本の侍は口に出したことはどんなことでも守るって、いう意味ね」
「そう、それを言ったら、僕の父さんが『日本人のことわざとか学ぶ必要はないって怒り出して。でも僕も理屈に合わないから頭に来て、『日本人がいった言葉でも正しいことは正しいだろう』って言い返したら、怒り出したんだ」
「それは日本でもあることだよ」
また揺れた。その揺れは単に左右に揺れたのでは無く、上下と左右に複雑に揺れた。そして、「ギューギュールルン」というおぞましい音が下から鉄板を伝って這い上がってきて、私の心臓をきゅっと締め付けた。
私はまたしても手すりを強く握りながら、身体を壁に吸い付かせた。チェ君の顔も再び青くなっていた。
「チェ君、耳を澄まして。怖いだろうけど集中して。鉄板を伝って音が聞こえてくるでしょ」
ガンガンガン、ポンポンポンポン
「人がこの船の外を歩いているんだ」
「きっと、船の外の手すりかなんかを伝って人が救助艇に向かって居るんのよ」
私がチェ君の目を見るまでも無く、チェ君は船窓に顔を張り付かせた。
「見えたよ、見えた。あの後ろ姿はスジンだよ」
「どうしてスジンって分かるのよ」
「だって、スジンの後ろ姿、学校で覚えるくらいに見ているから」
「あっそうなんだ。覚えるくらい」
「なんていうか、肩がこれくらいで、足がちょっと細めで、それになにより髪がおさげじゃないか、おさげ髪の左側がすこしだけほら3センチくらいはねているだろ、絶対にスジンだよ」
チェの顔を見た。この状況で好きな子の後ろ姿を見ただけで、心から嬉しそうにしている。そこに迸る清純さがあり、感動して涙が出そうだった。
「絶対、助からなくちゃね」
8月3日午前9時55分。310号室 船体傾斜角42度
「先生、もうそろそろ下から水が上がってくるんじゃ無いか、なんとかここから抜け出さないと」
「ガラスを叩きなさい、思い切り叩きなさい」
どんどんどんどん、ガンガンガンガン
ドンドンドンドン、ガンガンガンガン
二人で思い切り叩いたが、ガラスは少しも割れそうも無い。
「おーい、ここだよ、おーいんここだ。こっちみろよ。ここにいるじゃないか」
チェ君の声は船内に響き渡ったが、船外には全然届いていない。
どんどんどんどん、ガンガンガンガン
ドンドンドンドン、ガンガンガンガン
無駄かもしれないが、あるいはこんなに強くガラスを叩いたら手を怪我するかもしれない、ガラスで手を切るかもしれない、でもガラスを割らなければ助からない。
なんとかしなければなんとか、私に責任を果たさせて、教師として、教壇で、生徒に人の生き方を説いていた私の責任を果たさせて、小さな恋を実らせて、お願い神様。
時間が過ぎた、二人で交代でガラスを叩き続けた。次第に海水が増えてきて、膝まで満ちた上に浸透してきた。だがガラスはビクともしなかった。
あっそうだ。
「ねえ、チェッ君、さっき私ね、頭をぶっつけたのが固い固い金属だったけどさあ、あれって棒状だったから、緊急時に窓を割るためのものじゃないかしらね」
「先生!ライフハンマーだよ、それは」
「先生、行ってきて取ってきてくれ!!」
「うん!!」
作品名:韓国客船に乗り合わせて 作家名:ブラックウルフ