アミィに捧ぐ”Duet”
すべてはそこに行き着く。
「りえ、俺を、俺に、『愛している』と、言ってくれ」
「えっ……?」
蓮池は驚いたが、何の躊躇もなく言い放つ。
「愛してる」
やっぱり飲み込めない。以前あれほどときめいたはずの言葉でさえ、形を、意味を思い出せない。反芻する自問自答に追い詰められてきゅっ、っと首をひねられたように、コロリと言葉が出た。
「ごめん」
こんな言葉は言いたくないんだ。こんな、こんな安っぽい言葉なんか!
生田は口を引き裂いてでも、疑い、拒み、消し去ってしまいたいとさえ思った言葉を取り消したくて仕方がなかった。心の底から思ってもないくせに、誠意ではなく保身の謝罪をしたことで、自己嫌悪は加速していく。
「タケちゃん?」
生田を確かめるように、続けて言う。
「タケちゃん!」
「分からない……」
「分からないんだ。俺はりえのことも、俺のことも、皆のことも……。何を疑い、何を信じて、何を認めて何を許して……。そう、なんもかも分からない」
「俺は何を言っている? 何が言いたい? 言いたいことも持っていないくせに、どうして喋っている? 何もないくせに」
こんなものは吐出物だ。蛆が沸くような、見るも無残に傷んで鼻がもげ落ちてしまいそうな臭いまでしそうだ。
「そうやって、今まで苦しんでいたの?」
苦しんでいた? 果たしてそれが適当なのかどうか分からないけれど、生田の首は縦に動いた。
「そんな、そんなのって―――。そんな苦しんでるなら私に言ってよ! 私……、相談に乗るよ」
泣き喚く蓮池。その必死の呼びかけにさえ、生田はただただおびえるばかり。
「ねぇ、私ってそこまで頼りにならない? 力になりたいのに……」
賢明過ぎる蓮池のまなざしが、ようやく生田のおびえを解き始める。
久しぶりにちゃんと見た蓮池の瞳は、いつだって生田を見ていた。目を赤くして腫らしてまでも心配してくれている。徐々に取り戻しつつある自意識を振り絞って口を開く。
「ある日からずっと……、気づいた時から寒気は音もなく忍び寄って俺の体を凍えさせるんだ。普段言っている言葉が本当に『本当』なのか分からなくなってから……。言葉にあるはずの意味ってなんなんだ―――、って。そうだ、例えば……、りえに愛していると言ったとして、そこに本当の意味がないかもしれない。そう考えただけで、俺の言葉を信じる事が出来なくなったんだ……。ケイタにごめんな、って言われても、本当に謝ってなんかいないと思い込んだ」
燃え盛る凍える自己嫌悪の炎。その身が灰になってしまいそうな罪の意識に言葉がぼろぼろと口からこぼれ出る。
「俺の思っていることなんて、皆だって思っていることだって分かってる。言葉が嘘だらけでも、意味なんかなくても、皆気づかないフリをして器用に生きているんだ。それが当然なんだ。ところが気づいてしまった俺はどうだ? ……もう他人の言葉を、何より自分の言葉を信じることが出来なくなったよ」
それは今までの懺悔のようにも聞こえたし、呪詛のようにも聞こえる。
「どうせ嘘なんだろ? 俺を褒めたって、好いていると言ったって、所詮打算で繕った言葉だろう? 他人の言葉を試していくうちに、平然と疑う自分がいて、ますます自分が信じられなくなった。そうなれば他人も疑わざるを得なくなる。俺は他人の言葉に潜む嘘を否定するくせに、俺は俺できっちり嘘をついているんだ。もう、いっそ言葉なんてなくなってしまえばいいんだと本気で思った」
言葉のパラドックスに呪われた生田は、言葉で自らのうちでうごめく思いをぶちまける。
「なぁ、俺はどうすればまた同じように話せる? ―――無理だ。これは、もう染み付いてしまった呪い。他人を疑い、何より自分を信じられない。気づかなければよかったよ、こんなこと」
次から次へと、息を忘れて出し切って話せることに生田は心底驚いた。思ってもいないことをべらべらたらたら……。
いや、拒み続けていた、生田に息づく怖れの正体が、今生田の口からまぎれもなく姿を現したのだ。
蓮池は生田のどす黒い濁流を受け止め、涙を拭い、止めた。強く生田を見つめる。温かいやさしさを瞳に湛えて、生田をつつみこんで囁く。
「ねぇ、タケちゃん。愛してるって言って?」
「りえ、俺は言葉に意味がないって知ってしまったんだ。どんな言葉でも本当の意味を伝えられないんだ」
「いいから……」
「ダメだ。俺は空っぽなんだ! 何もない! まして愛しているだなんて―――」
「いいからっ!」
生田は赤子のように二三回口をぱくぱく開ける。言うのをためらってしまうのだ。愛していないからではない。言う術を無くしてしまったからだ。
「あ、いし、てる」
幻のようにつかみどころない言葉。生田はやっと言えた開放感でぐったりしてしまう。それを蓮池は細い腕でしっかり抱きとめる。
「聞いて、この音。タケちゃんの言葉でこんなになるんだよ」
とくん、とくん。生田の耳にはしっかり届いている。それは生命の音。言葉よりもずっと昔からあった音。鼓動に意味はなくとも、拍動する鼓動の音が早くなっていくことだけで、蓮池の気持ちに触れられる。
「タケちゃんは真面目なんだね。全部の言葉に意味があったりする必要なんて、ないんだから。そりゃ言葉で伝えられる意味なんて、ほんの少しだけど、それでも私たちは言葉で伝えあわないといけない。残念だけど、それ以外に手段はないもの」
子供を諭すように生田に語りかける蓮池の一言一言は、生田の奈落に差すかすかな光明。触れれば凍てついた指が温かい。
「だったら俺は、言葉なんて要らない! 二度と誰とも喋りたくない!」
「それは甘えだよ? どんなに意味がなくなって、嘘にまみれていたって、その言葉を受け止めるしか出来ないの。タケちゃんは分かってるよね。分かりすぎてるから怖いんだよね。でもね、怖くったってそれでも皆自分の思ってること伝えたくて、他人の思ってること知りたくて、繋がりたくて言葉を使ってるの」
「だからね、こんなにドキドキするし、寂しくなるの」
きゅっ、と蓮池は生田を抱きしめる。消えてしまわないように、ここにとどめておくために。
「こんな、こんな俺の言葉でも……、りえに伝わったのか?」
「ここにある音を聞いて」
「本当に愛しているか、俺自身が信じていなくてもか?」
「しつこいなぁ、私が信じられないの?」
生田はそれでも信じられない。蓮池の想いも、自分自身の想いも、すべてが信じがたい。けど、信じられないわけではない。
「信じたい」
弱弱しく、生田はあえぎながらこぼした。
「信じたいんだ。りえのことも、自分のことも」
言葉を疑い、拒み、否定することでは言葉の意味なんて探れない。受け止めないことには、始まらない。蓮池が言ったことを、生田はようやく噛み砕いて飲み込んでいく。欺瞞、猜疑、拒絶……。はびこりあまねく言葉の裏さえ受け止める。それでも信じてあげないといけない。
―――なんと怖ろしいことか―――
作品名:アミィに捧ぐ”Duet” 作家名:明梨 蓮男