アミィに捧ぐ”Duet”
生田はもう今までの生田として生きていくのが困難になった。寒さに身を震わせながら必死で泰然を作り上げる、そんな毎日だ。結局、生田はケイタにノートを見せお調子に付き合い、バイトも今まで通り謝罪の反復応用。毎日を平凡で埋め尽くしてしまえば、忘却を刷り込んでしまえば、寒さなどいずれ消えてしまうだろうと生田は半ば諦めて、割り切った。
「おう、ケイタ」
「タケヤ頭いいなー」
「その服かわいいな、りえ」
「そう? ありがとー」
「すいません」
「申し訳ございません」
「ありがとうございました」
「ねぇ、タケちゃん……。大好き」
「うん。……俺も」
「えへへ……」
「起きてー!」
「おはよう、りえ」
「もう……、何回も起こしたんだよ?」
「うん」
「朝ごはん出来てるから食べてね」
「うん」
「じゃ、私先に行くから」
「うん」
「………」
「……あ」
「うん……」
「ああ……、あ」
そして、ついに。
「………」
「日常に、身を投げ出すのは、やっぱり」
「ケイタに、あわせて笑っても、バイトを、たくさんやっても、りえを、どれだけ抱いても―――」
「いいレポートって言われてもどんなに給料上がってもたくさん好きって言われても」
「………。ない」
「ないんだ、なんにも。からっぽだ……」
空虚……、すべてが。空虚が俺の隣で寝ている。この部屋は透明の絵の具で塗りたくられている。俺の声のみ本物で、それだけが俺の生。声は聞こえ、言葉は飲み込めるけど、味がしない。布団のぬくもりで死と溶け合う。俺も透明になってしまいそうだ。
奈落に落ちた生田の言葉を、生田自身が疑い、否定し、拒絶する。誰かを褒めたりするたびに、打算が混入していないか常に検閲していないといけない。厳密にふるいをかけたって、不安はどうしても残る。その残滓は、誰かが褒めてくれれば、企みや思惑に歪ませる。悪意や嫌悪は姿を変えないから、検閲しなくても、疑わなくてもいい。そう、悪意や嫌悪が今の生田の心の安らぎだった。だが皆は生田には与えなかった。それどころか、昨日の夜、蓮池に抱きしめられながら愛の言葉をささやかれたが、生田にとっては温かかったのは表面だけだった。体の芯から隅々まで伝染する凍えを溶かすに至らない。
「ただいまー」
奈落に漂っていた生田の志向は、蓮池の声で現実に引き戻された。すでに日は傾いている。
「今日学校に行かなかったでしょ」
生田は返事をしない。目は、開いている。体はだらん、とベットに横たえている。
「タケちゃん?」
声は聞こえ、飲み込めはする。
「タケちゃん具合悪いの?」
が、味がしないのだ。もうおいしくない。食べたくない。
「タケちゃん!」
ついに体を揺さぶられた。とろとろと、奈落の闇が口から漏れた。
「うんだいじょうぶだからしんぱいしないででていってひとりにしてうるさいよ」
蓮池の顔が、涙でくしゃくしゃになっていくのを、生田は気づきもしない。
「何で……? どうしたのタケちゃん。最近何やってもつまらなそうだし、友達とも離れて過ごしてるらしいじゃん! あのバイトし始めたときからそうだよ……。何かあったんでしょ? 私に言ってよ!」
涙と鼻水を垂れ流し、感情をむき出しにする蓮池。訴えかけてくる蓮池に、生田は死んだ目を向けた。目にすら奈落を湛え、奈落そのものたりえる生田の目は、蓮池にはどの凶刃よりも冷たく、鋭く見えた。
(りえ……)
生田から、蓮池の意味と特異性がどんどん剥げ落ちていく。残ったのは蓮池という女。
「うんだいじょうぶだからいいからはやくでていっていいからはやく」
「もう……、知らないっ!」
出て行く蓮池。すっかり生けた屍と成り下がった生田にはけたたましく映った。闇に侵食されたはずの心が、膿んだかのようにずくずくと痛むのだった。
お腹がすいた。
ここまでお腹が空いたのは初めてだった。トイレくらいでしか、生田はベットから立たなかった。最近ではトイレに行くことすらなくなった。ご飯は作らない、米も炊かない、買ってくることもない……。何かを食べるという行為自体、おっくうなのだ。咀嚼し、飲み込む。考えただけで吐きそうだ。
餓死でも何でもいいから、苦しまずに死なせろ。
日が沈んで月が昇る。生田は月光に照らされて意識の波が押し寄せてくる。意識の波、それは生の証。月の光を受けてようやく人間として生きていられた。
―――ただ、人間が月光だけ吸い取って生きていられるはずがない。
次に生田が目を覚ましてしまったのは、病院だった。残念だと思った。やっと神様の存在を信じられたと思ったのに。生物はみな、細胞レベルで生への執着が刻み込まれている。抗えるのは選ばれた人だけ。自殺できる人間の、なんと勇敢なことか。
「よかったぁ……、よかった!」
傍らで泣き続ける声。蓮池のものだった。
「ま、極度の栄養失調だからな。そんなに心配しなくていいだろ」
もう一人、蓮池をなだめているのはケイタだ。
「あ……」
自分の言葉が、遠く聞こえる。まだ声が出せる。
「なんで、いんの?」
二人だけじゃない。見覚えのある顔が、そろいもそろって心配そうに生田を見つめている。蓮池は生田の肩を激しく揺らして叫んだ。
「大事に思ってるからでしょ!」
「お、おいやめな……」
蓮池をたしなめた啓太が、今まで見たことのないような真面目な調子で話し始めた。
「お前部屋でぶっ倒れてたんだよ。一週間もメシ食わず、水も飲まずでさぁ。何してたんだよ……」
(そんなことは知ってんだよ)
何も食べたくなかったのは、生田の願いだった。生田が訊きたいのは、そういうことではない。心配していないのにその面をさげてここにいるのか。
「なんで、みんな、いんの……?」
「タケちゃん……」
生田の胸に泣き崩れ顔をうずめる蓮池や、周りにいる友人たちに、生田にはどういっていいのか頭が回らない。皆、蓮池の様子を見てい居づらくなり、「俺たち外にいるから」とケイタが言い残して病室を出て行った。病室には生きた屍の生田と、その胸でさめざめとなく蓮池のみ。
(この女は、俺の女。愛情の対象)
無機質に、成分分析でもするかのように、こそげ落ちた蓮池の要素を一つ一つ拾いあげていく。
(俺に何度も何度も愛情を向けてきた。特別な存在。想い人。付き合い。手を繋ぎ、ふれあい)
拾い上げれば拾い上げるほど、蓮池との歴史がフラッシュバックしてくる。
(ああ、そうだ。そんなことも、あって―――。イラっときたり、可愛いなとか思ったりして)
(………。でも、それがニセモノなら?)
這い上がってくる黒き闇が生田の身を襲い、身震いさせる。奈落から伸びる手が、喉笛をいつでも引き裂けるぞと首筋をなぞってくる。抗いようもなく、呪われているのだ。
「タケちゃん」
泣き疲れているのか、まどろみの中に居てもなお、心を痛めている声を聞いた。彼女は本当に『彼女』だからここに居るんだろう。想い、想われているとかたくなに信じている。しかし、想われていないかもしれないという恐怖が、蓮池の心を痛めつけている。その原因は自分だと分かっていても、生田は応えられない。
(俺の気持ちが『ニセモノ』だから―――)
作品名:アミィに捧ぐ”Duet” 作家名:明梨 蓮男