アミィに捧ぐ”Duet”
テーブルに置いてあるかさばった書類を指差す蓮池。まるでおぞましいものでも見るかのような言い方に、生田は噴き出してしまった。
「ふふっ、そんな引かなくてもいいじゃん。全部、家電量販店のマニュアルだからさ、たいていどこも同じだし。すぐ覚えられるよ」
「この間はコンビニだったよね?」
「そうだったような気もするね」
覚えるという作業は、生田にとって苦痛ではなかった。幼いころから勉強する空間に慣れ親しみ、覚える方法というものを、必然的に身に着けていた生田にとって、かさばるマニュアルの共通点と要点をおさえることなど、造作もなかった。
「とりあえず低姿勢、それで、弱く出て、敬語で喋ってればいいのさ」
この言葉を吐いた瞬間、生田の志向が一瞬凍った。自分の中で佇む存在の触手のようなものが、心臓にぬるりと絡み付いてきたのだ。そのときだけ、その存在は輪郭をくっきりとさせた。
「もうっ、プライドないんだから」
茶化してくる蓮池の声は生田には届いていない。だが、思考の凍結は生田の深層にまで及んでいた。
「あ、ああ……。そうだな。給料がいいからね。そこは我慢だ」
我に返る生田。何かにいてつく心を奮い立たせていつものように振舞う。
これまでにない不安、言い知れぬ恐怖に、心がまだ凍えているのであった。
次の日、いつもの喫煙所で生田はケイタを待っていた。昨日言っていた、課題を出すための授業を一緒に行くために待っているのだ。生田は長く待っているわけではないのだが、足を小刻みに揺らして苛立っている。
(俺がいつでも待っていると思ったら大間違いだ)
(なんだかんだ言って俺が便利なだけなんだろ)
(ルーズなのもいいかんげんにしろよな、ほんと。こっちの身にもなってみろ)
なぜ、自分がこんなにもイライラしているのか、自他共に温厚と認める生田には分からなかった。分かってさえいれば、これほどまでに苛立たなくてすんだろう。
「いやー、ごめん遅くなってさぁ」
「遅いよ、いいから早く行くぞ」
「おうおう」
こうなってしまうと、いつもは好印象のお調子も、生田の頭に余計に血を上らせることになる。
教室ではすでに講義は始まっていた。話の内容を聞くと、前回の復習をしているようだ。まだ始まったばかりだと、生田は安堵する。
教授は、教室にいる生徒らに長々と講義と題した自らの思想をのたまう。ある生徒はうつむき、ある生徒はゲームを机の下で隠れてプレイし、またある生徒―――例えば生田の隣の、ケイタのように今にも寝そうな生徒がいる。教授は今まさに大きい独り言をしているのだ。生田は自分を棚に上げていることは重々知っていたが、それでも、どうしようもなくふつふつを疑問が沸いてきてしまうのだ。いったい、誰がこの独り言を聞いているのだ。否、生徒たちが独り言にしてしまっているのか。
会話というものは、相手に伝わり、自分にも伝わってこそ初めて意味を成すはずだ。ただ垂れ流される教授の講義内容が、隣の友人とぺらぺら喋ってる女や、寝ているケイタによって零され、落ちていく。荒廃する要素すら、寒気がするほどなにもない。そんな光景を、生田は今までずっと見てきたし、疑念も、恐怖も感じ取ったことすらなかったはずだ。なにをいまさらと生田は鼻で笑いたかったが、それよりもやはり、疑念や、言い知れぬ恐怖が先行するのだ。
本来の講義の意義を、生田は無視して考えた。悶々と自らに問いても、答えは明確にはならない。幾度となく繰り返した。まるで、自らの答えを拒否しているようだ。疑念を生み出しては消費せず、ただいたずらに生み出し、他人の心に恐怖を覚えているのだ。そこまでは分かる。誰だって他人の心を覗けないから恐怖するのだ。その恐怖は生きていれば至極当然。生田は分かっていたつもりだったが、やはり、負の連鎖は収まらない。残ったのは、隣で平然と寝こけているケイタと、自分は同じ、ということだ。
講義も終わりに近づきつつある頃、教授が課題の回収を始めた。
「おいケイタ、課題返してよ。集めはじめたから」
ケイタは眠気にさいなまれながら、カバンの中をあさる。中から出てきたのはくしゃくしゃになっている原稿用紙五枚。しかし、まだあさる。結果、何もカバンから出さずに、ケイタの口からはおなじみのお調子が飛び出した。
「ごめーん、タケヤの分家に置いてきちゃったわー」
救われないな、と生田は思った。自分のことを思ったのではない。ケイタのことだ。怒号を飛ばすより先に、呆れ果ててしまった。「いやー、ごめんごめん。ついてっきりね。机の上においておいたんだけど」と続けたケイタ。反省の色、というのを、この男は知っているのだろうか。謝罪とは、誠意が伝わってこそだ。生田は落胆するしかなかった。
「ごめんついでなんだけどさ、ノート写させてくれないかなぁ?」
(結局、こいつは、俺を利用できる、便利なだけなんだ)
生田はただただ、脱力した。あるいは自分に絶望した。だから、生田は無言で教室を出た。二度とケイタの顔など見たくもない。
「ええ、なるほど、かしこまりました。そのようにお伝えします。はい。またご利用ください。ありがとうございました」
気づいてはいけないことに、生田はついに気づいてしまったのだ。
いや。それは違う。
ついに追い詰められた、といったほうが正しい。
ごめんなさい、すいません、申し訳ございません、ありがとうございましたエトセトラ。
この言葉たちは、世界に空気のように存在していて、もはや飽和しているくらいだ。しかし、そこにある意味とは、すなわち空虚。殻だけの胡桃、包装しかない贈り物。生田もまた、包装のみの言葉で会話するから嫌というほどくっきり見える。拒絶しても強制的に知らしめられる。仕事にしても、日常にしても、生田は幾度となく言葉に空気をつめて綺麗に包装してきた。それが己のうちに眠る空虚を呼び起こしてしまうことに気づかぬまま。
(俺が思っていることなんて、皆思っているんだから、ショックに思うことはない)
皆、この空虚に気づいていないから平気でいられる。だが、生田は悟ってしまった。分かっていたって思っていたって、理解は出来ていない。出来ていたら平気でいられるはずがないのだから。
悟ってしまえば北風に服を吹き飛ばされた旅人と同じだ。あとは凍え死ぬのを迎えるだけ。奈落の底を待望するだけ。
ケイタの謝罪に意味なんてない。生田の原稿用紙をなくして謝ったのではない。謝っておくことで、便利の友人を手放したくなかっただけだ。クソの役にも立たない、ただの自分へのお膳立て。よくよく気をめぐらせれば、いろんなところから、そんなクソの臭いが漂ってくるようだ。もはや、生田の思考は奈落に落ちていくだけだった。音も立てず、落ちているのかも分からない。そんな暗闇へ、寒気さへ。
「はい、はい、すみませんでした。失礼します」
この俺の言葉からでさえ、鼻の曲がる、いやしい臭いがするんだ……。
作品名:アミィに捧ぐ”Duet” 作家名:明梨 蓮男