アミィに捧ぐ”Duet”
”アミィ”に捧ぐDuet
生田の中に根付いているのは、「模倣」と「反復」であった。これは、今は落ちぶれた生田が幼きころから学ばされていた学習塾で、生き残るための知恵、すなわち武器であった。
生田はモラトリアムに閉じ込められている、大学三年生である。一年、二年と単位はあらかたとってしまったので、ゆったりとした生活を送っている。資格もとり始め、二ヶ月前に久しぶりに彼女も出来た。
そんな彼は、求人誌を見てしめた、と思った。
―――クレーム対応のバイトです。資格等は問いません―――
時給が高い、場所もあらかた近い。生田は早速面接に行った。受かる気でいた。資格もあれば、大学こそ三流だが、高校までならいいところに行っていた。つけたせば、いつでも入れる人材、という利点が生田にはあった。
即日で生田は採用された。生田より彼女のほうが喜んでいた。
彼女のほうから告白された生田。生田は、自分より背が小さければそこまで容姿にうるさくなかったつもりだったし、何より、その一生懸命な姿が好印象だった。初めて会ったのに、「いいよ」と返事をしてしまった。
「やったー!」
はねるように喜ぶ彼女を見て、生田は久しぶりに心の奥がむずかゆくなったのだった。
「タケちゃんは単位に困らなくていいよね」
大学の食堂で、生田の彼女、蓮池がコーヒーのにおいとともにため息を吐いた。
「自業自得だろ」
生田はもうその話を何回も聞いていたが、蓮池は生田の機嫌を過度に気にする性格ということを把握していたので、やさしくたしなめるように心がけて言った。
「そうだけどぉー。ねぇ、そうだ。レポート手伝ってよ」
そう言って蓮池はカバンから作文用紙を出してきた。
「なんのレポート?」
「成瀬教授のやつ」
「俺それ去年すでに取ったな。評定『優』でさ」
「ひどーい、あてつけー?」
生田は、付き合ってから蓮池という女を、付き合えば付き合うほど面白い女だと分かり始めた。ひとつ、いじられなれているのかからかい易いこと。ふたつ、何も考えていないようで、実は考えていること。みっつ、生田と違って、感情が豊かなこと。その他もろもろ。
とにかく、生田は蓮池という女を、女じゃなく、『隣を歩む者』として分かり合えればいいと思い始めていた。それから生田は、幸せと思える時間があることに気づいたのだった。
果たして俺はは、今幸せなのだろうか。
五体満足、平和に日々を過ごしている。ただただ今日を昨日にして、明日が今日を塗りつぶす。この日々を俺は、納得出来ているだろうか……?
「―――はい、はい。申し訳ございませんでした。はい、それでは失礼いたします」
俺は電話を切った。タバコに火をつける。一気に吸う。火種がじりじりと、音を立てて葉を煙に昇華させる。
こんな日々でも、俺は満足したい。そのために俺は今、このバイトをやっている。
登校後、必ず一服することにしている生田は、今日もまず喫煙所へ向かう。
「タケヤ」
喫煙所には友人たち。指にタバコを挟んで、煙とともに談笑しあっている。
「おう、ケイタ。明日の課題、ちゃんとやったか?」
「もちろんやってねーっす」
「お前……。こんなところでタバコ吸ってる場合かよ」
「困ったときにはタケヤ様を呼べって、お母さん昔言ってたわ」
「言ってるわけねーだろタコ」
お調子者のケイタは、へらへら笑ってタケヤに絡む。その顔からは全く焦りとか、後悔という感情は見受けられない。ただ、生田はケイタのことを嫌いではないし、むしろいつでもお調子者でいられるところが気に入っていた。
「だいたい、二千字のレポートとか……。書けるわけねーじゃん!」
「とても大学三年生が言う台詞とは思えねーな」
もし本気だったら救えない。生田はケイタの将来が心配になった。ここで自分が救ってあげないと、ケイタの単位が危ないことを直感した生田は、致し方なくカバンから原稿用紙五枚を取り出した。
「とっとと写せよ? あ、丸写しは駄目だからな。ところどころ違うことを書いておけよ」
「さすがー。持つべきもんはタケヤだなぁ」
「はいはい」
空返事でケイタを煙に巻いてタケヤは時計を確認する。そろそろ講義が始まる時間だ。
「んじゃ俺行くわ」
「あいよー。明日の講義ん時返すわー」
ケイタの声を後ろに、生田は面白みもないただの単位稼ぎのための講義に足を運んだ。
生田の持っている単位は、すでに卒業規定の八割以上だった。だから、ケイタのように単位取得に今更あくせくしなくていい。卒業まで必要な講義を受け、論文を書けばいいだけ。だから生田は簡単に受かる資格を手当たりしだい取っていこうと考えていた。持っていて困らないだろうという、安易な考えだが、暇つぶしにはなるだろう。
夢、目標……。生田にはそういった将来への明確な指標を見つけることがなかった。志そうと焦ったこともない。別になくとも生きるのに困らないと知ってからは、当たり障りなく自分に出来ることを消費していくことを覚えた。友人にそれはむなしいと言われたが、生田にはそのむなしさというのがあんまり理解できなかった。
友人、恋人……。自分のことを理解してくれる人がいるだけで、平和に過ごせるだけでいい。生田は自分でも事なかれ主義だと思っている。友人に振り回され、恋人のわがままに付き合っている生活が楽しい。
ただ―――。ただ、不安? 疑問? 恐怖? そのどれともつかない言いようのない、生田のつま先から侵食してくる寒気さが、自分の心の混沌に静かに佇んでいる気がしていた。気がしているだけで、それは勘違いだと生田は気にしないようにした。
トゥルル、トゥルルル……。
携帯が鳴った。さあ、バイトだ。
蓮池が帰ってきた。電話中の生田を見て、声を発さず口のみで「ただいま」と言う。幾多は目線を蓮池に向けずに、かわりに手をひらひらと振った。
「―――はい、そのような事例はなかなかございませんで、対応が遅れてしまって誠に申し訳ございませんでした。はい、そのようにさせていただきます。貴重なご意見ありがとうございました」
携帯の通話を切ったのを確認してから、生田はため息を吐いた。吐ききった。
タバコに火をつけようとすると、蓮池が生田の頭を軽く小突いた。
「タバコダメ」
生田は蓮池のこのしぐさが大好きだった。じゃれてくる子犬のような、そんなスキンシップを見るためだけに、分かってやってみたりするときがあるくらい好き。
「今日もずいぶんといろいろ言われたんだね」
「それがお仕事ですから」
ソファに身を預けながら、生田は書類に目を落とした。
生田の働くクレームセンターは、少し特殊だった。様々な会社の様々なクレームを、本部で一回受信、コンピューターで処理してアルバイトメンバーに転送される。もちろん、メンバーにはシフトが存在していて、その間に不定期にかかってくるようになっている。家に居ながらバイトが出来る、利のいい内職みたいなものだ。このバイトにしてから、蓮池の料理を生田は毎晩食べられる。
「このマニュアル、全部覚えたの?」
生田の中に根付いているのは、「模倣」と「反復」であった。これは、今は落ちぶれた生田が幼きころから学ばされていた学習塾で、生き残るための知恵、すなわち武器であった。
生田はモラトリアムに閉じ込められている、大学三年生である。一年、二年と単位はあらかたとってしまったので、ゆったりとした生活を送っている。資格もとり始め、二ヶ月前に久しぶりに彼女も出来た。
そんな彼は、求人誌を見てしめた、と思った。
―――クレーム対応のバイトです。資格等は問いません―――
時給が高い、場所もあらかた近い。生田は早速面接に行った。受かる気でいた。資格もあれば、大学こそ三流だが、高校までならいいところに行っていた。つけたせば、いつでも入れる人材、という利点が生田にはあった。
即日で生田は採用された。生田より彼女のほうが喜んでいた。
彼女のほうから告白された生田。生田は、自分より背が小さければそこまで容姿にうるさくなかったつもりだったし、何より、その一生懸命な姿が好印象だった。初めて会ったのに、「いいよ」と返事をしてしまった。
「やったー!」
はねるように喜ぶ彼女を見て、生田は久しぶりに心の奥がむずかゆくなったのだった。
「タケちゃんは単位に困らなくていいよね」
大学の食堂で、生田の彼女、蓮池がコーヒーのにおいとともにため息を吐いた。
「自業自得だろ」
生田はもうその話を何回も聞いていたが、蓮池は生田の機嫌を過度に気にする性格ということを把握していたので、やさしくたしなめるように心がけて言った。
「そうだけどぉー。ねぇ、そうだ。レポート手伝ってよ」
そう言って蓮池はカバンから作文用紙を出してきた。
「なんのレポート?」
「成瀬教授のやつ」
「俺それ去年すでに取ったな。評定『優』でさ」
「ひどーい、あてつけー?」
生田は、付き合ってから蓮池という女を、付き合えば付き合うほど面白い女だと分かり始めた。ひとつ、いじられなれているのかからかい易いこと。ふたつ、何も考えていないようで、実は考えていること。みっつ、生田と違って、感情が豊かなこと。その他もろもろ。
とにかく、生田は蓮池という女を、女じゃなく、『隣を歩む者』として分かり合えればいいと思い始めていた。それから生田は、幸せと思える時間があることに気づいたのだった。
果たして俺はは、今幸せなのだろうか。
五体満足、平和に日々を過ごしている。ただただ今日を昨日にして、明日が今日を塗りつぶす。この日々を俺は、納得出来ているだろうか……?
「―――はい、はい。申し訳ございませんでした。はい、それでは失礼いたします」
俺は電話を切った。タバコに火をつける。一気に吸う。火種がじりじりと、音を立てて葉を煙に昇華させる。
こんな日々でも、俺は満足したい。そのために俺は今、このバイトをやっている。
登校後、必ず一服することにしている生田は、今日もまず喫煙所へ向かう。
「タケヤ」
喫煙所には友人たち。指にタバコを挟んで、煙とともに談笑しあっている。
「おう、ケイタ。明日の課題、ちゃんとやったか?」
「もちろんやってねーっす」
「お前……。こんなところでタバコ吸ってる場合かよ」
「困ったときにはタケヤ様を呼べって、お母さん昔言ってたわ」
「言ってるわけねーだろタコ」
お調子者のケイタは、へらへら笑ってタケヤに絡む。その顔からは全く焦りとか、後悔という感情は見受けられない。ただ、生田はケイタのことを嫌いではないし、むしろいつでもお調子者でいられるところが気に入っていた。
「だいたい、二千字のレポートとか……。書けるわけねーじゃん!」
「とても大学三年生が言う台詞とは思えねーな」
もし本気だったら救えない。生田はケイタの将来が心配になった。ここで自分が救ってあげないと、ケイタの単位が危ないことを直感した生田は、致し方なくカバンから原稿用紙五枚を取り出した。
「とっとと写せよ? あ、丸写しは駄目だからな。ところどころ違うことを書いておけよ」
「さすがー。持つべきもんはタケヤだなぁ」
「はいはい」
空返事でケイタを煙に巻いてタケヤは時計を確認する。そろそろ講義が始まる時間だ。
「んじゃ俺行くわ」
「あいよー。明日の講義ん時返すわー」
ケイタの声を後ろに、生田は面白みもないただの単位稼ぎのための講義に足を運んだ。
生田の持っている単位は、すでに卒業規定の八割以上だった。だから、ケイタのように単位取得に今更あくせくしなくていい。卒業まで必要な講義を受け、論文を書けばいいだけ。だから生田は簡単に受かる資格を手当たりしだい取っていこうと考えていた。持っていて困らないだろうという、安易な考えだが、暇つぶしにはなるだろう。
夢、目標……。生田にはそういった将来への明確な指標を見つけることがなかった。志そうと焦ったこともない。別になくとも生きるのに困らないと知ってからは、当たり障りなく自分に出来ることを消費していくことを覚えた。友人にそれはむなしいと言われたが、生田にはそのむなしさというのがあんまり理解できなかった。
友人、恋人……。自分のことを理解してくれる人がいるだけで、平和に過ごせるだけでいい。生田は自分でも事なかれ主義だと思っている。友人に振り回され、恋人のわがままに付き合っている生活が楽しい。
ただ―――。ただ、不安? 疑問? 恐怖? そのどれともつかない言いようのない、生田のつま先から侵食してくる寒気さが、自分の心の混沌に静かに佇んでいる気がしていた。気がしているだけで、それは勘違いだと生田は気にしないようにした。
トゥルル、トゥルルル……。
携帯が鳴った。さあ、バイトだ。
蓮池が帰ってきた。電話中の生田を見て、声を発さず口のみで「ただいま」と言う。幾多は目線を蓮池に向けずに、かわりに手をひらひらと振った。
「―――はい、そのような事例はなかなかございませんで、対応が遅れてしまって誠に申し訳ございませんでした。はい、そのようにさせていただきます。貴重なご意見ありがとうございました」
携帯の通話を切ったのを確認してから、生田はため息を吐いた。吐ききった。
タバコに火をつけようとすると、蓮池が生田の頭を軽く小突いた。
「タバコダメ」
生田は蓮池のこのしぐさが大好きだった。じゃれてくる子犬のような、そんなスキンシップを見るためだけに、分かってやってみたりするときがあるくらい好き。
「今日もずいぶんといろいろ言われたんだね」
「それがお仕事ですから」
ソファに身を預けながら、生田は書類に目を落とした。
生田の働くクレームセンターは、少し特殊だった。様々な会社の様々なクレームを、本部で一回受信、コンピューターで処理してアルバイトメンバーに転送される。もちろん、メンバーにはシフトが存在していて、その間に不定期にかかってくるようになっている。家に居ながらバイトが出来る、利のいい内職みたいなものだ。このバイトにしてから、蓮池の料理を生田は毎晩食べられる。
「このマニュアル、全部覚えたの?」
作品名:アミィに捧ぐ”Duet” 作家名:明梨 蓮男