二進数の三次元
ブロンドヘヤーの少女が、日本庶民臭い手元のせんべいを、バリバリ食べながら読んでいる。読書用だから許すことにしよう。全て初版の『ルーイン・サーガ』だが、セレナがこの漫画に興味を持ったこと自体、価値がある。
「面白いか?」
「うーん」
緊張の一瞬。恐ろしきセレナのうなり声が長く聞こえる。
「びみょー」
平たく伸ばしたセレナの答えに、肩透かしを食らった気になった。しかし、ここでセレナの興味に水を差してはいけない。
「そ、そうか。ゆっくり見ていてくれ」
この調子でセレナがハマってくれればいいけど、セレナはこの世間に僕ほど反感や退屈を感じているようには見えないから、どっぷりハマることはないだろう。
(まぁ、身近に『ルーイン・サーガ』の話が出来る奴がいるってだけでよしとするか)
トーストを焼きながら妥協することにした。ネットの住民か、はたまた数少ないアニメ好きな友人とでしか話せなかったことを思えば、うれしい出来事ではある。
身近? すっかり、僕の生活にはセレナが溶け込んでいる。セレナが、どこの、誰で、何故ここにいるのか分からないのに。しかし、当の本人に聞いたところで暖簾に腕押しだろう。調べたところで有力な情報に引っかかることもない。かわいいとは思うし、異性としてはこれ以上にないくらい魅力的ではあるけれど……。恋人にしようとか、したたかな下心は湧き上がらない。無論そんな勇気もない。あれほど非日常に憧れ、理想の女を画面で眺めていたのに、今はその理想が目の前に存在するのにもかかわらずだ。それもかなりアットホームな雰囲気で。
「セレナは、その……。不安じゃないのか?」
背中越しのセレナに届くように言う。セレナは考えているのかしばらくの後口を開いた。
「どういうこと?」
「何でここにいきなり居るとかさ。だって見知らぬ男の部屋に、しかも裸だったんだぞ? 何が起きたとか思わないのか? あと、自分の記憶がないとか、それを思ったら不安にだってなるだろ普通」
一つ一つ声に出して挙げるとセレナについて回る問題というのは、途方もなく難儀なものだ。そんなことどうでもいいように、オーブンはチン、と鳴る。焼けたトーストのほのかな香りが立つ。日常の風景に安心する。僕は夢の中でも別世界でもない、現世の日本に居るんだ。セレナの分のトーストも焼き上がり、牛乳と一緒に持っていってやる。セレナは嗅ぎつけたのか、読んでいた『ルーイン・サーガ』をソファにおいて姿勢を起こした。
「この前も言ったけどさ」
セレナはトーストにマーガレットとジャムを塗りながら続ける。
「何も知らないの。でも不安じゃないって訳じゃないわ。そうね……、いつサタローが欲情して襲ってくるか分からないし、身分を証明できるものがないしね。病気になったら保険利かないしさ。でも、あいにくサタローが衣食住支えてくれてるし。うろたえたって仕方ないじゃない?」
(僕に聞かれても……)
セレナよりも、僕のほうがセレナの身の上を不安に思っているのか。セレナが楽観的すぎるのか、僕が杞憂しすぎているのか。
「そうは言うけどな……」
竹を割るようなセレナの性格に戸惑ってしまうばかりだ。トーストを齧りながら『ルーイン・サーガ』を読むセレナは、僕の過ぎた杞憂などどこ吹く風か、ジャムのついた手を舐めて、吹かずにそのまま『ルーイン・サーガ』をめくる。心の中では悲鳴をあげていたが、実のところセレナの少しセクシーなシーンを見て嬉しかったりした。また見たいので、言わないことにする。外見は日本人には珍しい外国人特有の気品さあふれる顔立ちや、透き通るような白い肌、天の川を思わせるような流麗な金髪、その全てがハイクオリティで現存し、眼前に居るのだ。外国人が好きな日本人のニーズを全てものにしていると言っても過言ではない。それほどまでに美しい少女が、裸で、いきなり転がりこんできて、同棲まがいなことになったのだから、それはそれは色魔の誘惑の力のなんと強いことか……。
「え? セレナ、僕そんなに、その、あの、エロい目で見てるように見えた?」
今になってセレナの言葉を思い返して顔から火が吹き出てしまいそう。「いつ襲ってくるかわからない」。つまりそんな気配をさせていたことと同義じゃないのか? セレナはどもる僕を見、卑しく微笑して口の端をほんのわずか上げる。
「そうねぇ。女って、男のそういうところに鋭いの。見たところサタロー残念童貞っぽいし。あ、図星でしょ? 残念童貞。ま、しょうがないよ、私魅力あるもの。裸見てもオナニーのネタにしないでよね?」
心が、痛い。何もかも見透かされていた。オナネタにしようとしていたところまで……。唯一の救いが、そっけなく、冗談めかして言ってくれたところだ。 セレナという女は底知れない。華麗なる大器だ。まるでそう、アーシェのような。髪が黒くて、瞳が赤かったなら、アーシェにさらに近づく。あぁ、やっと、やっと……。
アーシェ、じゃなくてセレナを見ていて思う。待ち焦がれていた非日常と憧れのアーシェのような女と過ごしていることに、かなり遅刻してきた歓喜の大波で心を満たされていく。セレナ、いや、アーシェじゃなくてセレナの記憶などどうでもいいから、このまま非日常に引きずり込まれたい。セレナは実は月の女神で、この世の魔物をひたすら倒すために降臨していて、僕がそれを助けたりするのかも。いや、もしかしたらバトルモノじゃなくって、ただただ愛を育むだけのラッキー野郎日常ラブコメのパターンなのかもしれない。が、しかし、幻想はセレナの一言によってあっさり微塵に粉砕される。
「あー、でも暇つぶしに、記憶取り戻したいかも」
それは、もしかしたらセレナが変わってしまうかもしれないこと。記憶が戻ること、それすなわち僕とセレナの特別な日々から、目が覚めること。お互いの生活に戻ったり、二度と会えなくなったり、月の姫だったら月に帰ってしまったり。今も昔も、出会いと別れは二律背反。共存してこそのストーリー。
「そ……っか。でも今週は予定がな」
「こないだ日曜休みって言ってたじゃん。私の記憶のためなんだよ? さっきあんなに心配してたの、嘘だったわけ?」
不穏な寒気が漂い始めた。セレナは怒ると無表情で声の波長が低調になる。今みたいに、仮面をかぶったようなそんな顔。
「分かった。分かったから……。日曜だな」
「そうね、なら今度はもっと歩き回りたいな。記憶、早く取り戻さなきゃね、うん!」
真意なんて推し量らなくても分かる。だから、僕はため息をとっても大きくして、長いため息をついたのだった。
電車で六駅またいで降りて賑わう街へ。僕が約束通りに起きなかったせいで、昼飯を食べそびれた。セレナはヘソを曲げてしまったが、ファミレスに入った時点ですっかり元通りになった。毎回毎回僕がおごるのは嫌なのだが、保護者の立場としては仕方ない。いつもセレナは気を遣って安いメニューを頼む。普段の食事の量以下のものを頼んでくれるのはありがたい。ありがたいけどお腹空いているはずなのに平気な顔をされるから、ちょっと複雑だ。
「遠慮してんのかセレナ。いつもより食べる量が少ないじゃないか」