二進数の三次元
二〇一一年十一月十一日、満月の日。セレナはやってきた。エジプトのピラミッドでは観光客の見学禁止だと聞いたし、これは、予想以上に事態は大きいことなのかもしれない。―――しかし、期待するものの、それ以上の情報は出てこない。セレナとToy Casketの関連では一つもヒットせず、セレナ単体の、神話でのセレナでしかめぼしい情報がない。セレナ……、月の女神。自分の夫を迷惑にも永遠の命にした女神。どうでもいいこと。かぐや姫とかと関連はあるのか? とも考えたが、一向にピン、とくるものはなかった。
セレナはというと、この間買いためた雑誌や、僕がもともと買ってあった漫画を読み漁っている。ソファに寝そべって、だらしがなく。そこらへんの女と同じように、いいなー、かわいいー、と声を時々漏らしては次のページをめくる。服なんて着れればいい、と言っていたセレナだが、ファッション雑誌なんて読んでいる。普通の女のようにかわいい服を見てうれしくなったりするみたいだ。
「ちょっとー、ミカンもうないんだけどー、とってきてよ」
僕もかれこれ三、四時間くらい調べていたから疲れた。カフェオレを作りに立った。セレナは相変わらず勝手気ままにくつろいでいる。僕がゆっくりするはずのソファがセレナに占拠され、僕が大好きな紅茶は全てセレナに飲み干された。そろそろミカンも危ないかもしれない。コーヒーを淹れ終わって、その後、温めておいたミルクを入れる。昨日新しく買ってきたスティックシュガーを二本入れたのはセレナの方。
「あのなぁ、お前。もうちょっと遠慮を知ってくれよな」
ミカンとカフェオレをそばに置いてやったというのに、セレナは言うも事欠いて。
「だから、お前って言わないでよね!」
「お前のような無礼な奴を名前で呼ぼうだなんて思わないぞ、僕は」
文句を文句で返すと、セレナは無愛想にこっちを見て、そして無視するように雑誌をめくり始めた。
バイトから帰ってくると、セレナが寝ていた。午前0時半だから当然なのだろうが、セレナは最近夜更かししていた。おそらく睡魔に勝てなかったのだろう、傍らには漫画が落ちている。
今日はアーシェのアニメの日というのに、ソファはセレナによって乗っ取られているので、僕は仕方なくパソコンのチェアを引っ張ってくる。先週はアーシェによって事件が解決したから、今週はおそらく新しい事件があるはずだ。まだ学校になじめないアーシェが見れると思うと、ワクワクしてくる。さぁ、そうこうしているうちにオープニングだ。あぁ、このアニメは曲がいいなぁ。作画は細かいことを言えば、たまに手を抜いているのが分かってしまうことを引いて考えれば満足できる作りだ。先週の戦闘シーンはものすごく力入れていた。
「何見てるの?」
テレビの音量を上げたからか、セレナが起きた。
「これって、あの漫画のアニメ?」
ぼーっとしている眠気眼のセレナはいつもより色っぽくて、扇を煽らされてしまう。その気持ちを悟られまいと封殺し、そっけなく返す。
「そうだけど」
本編が始まった。余計なことは考えず、煩悩を滅却しアニメに集中するべきだ。ところが、セレナときたらテレビの明かりだけの中、漫画の方の『ルーイン・サーガ』を探し始めた。がさごそと耳障り、ぱらぱらとめくる音がやかましい。
(今アーシェが小声で何か言ったのに!)
きっとイライラしているシーンだ! あの教師にペンダントをはずせって言われたからだ。漫画だとおそらく……。
「死に損ないのその薄髪、隠してるつもりなのかしら」
だったはず。録画しておいたから後で見ればいいんだけれど、セレナときたら。
「おおっ!」
来たっ! ハーチャットだ! と、いうことは漫画通りなんだな。おそらくは、『ルーイン・サーガ』ファンにとっての正規ヒロインとなるこの子が出るということは―――。
「気持ち悪い」
充足感と幸福感に浸っていた僕に吐き捨てられた一言。さんざん僕の邪魔しておいて、何を言うと思えばそれか。
「独り言とか勘弁してよね。うるさくて寝れなかったわよ」
「僕だってお前のおかげで集中できなかったよ! 物音がもーうるさくてうるさくて」
「勝手に気にしてんのそっちでしょ! 気にするから余計に大きく聞こえるのよ。それと何? このアーシェ、とかいう子が好きなの? あんなのただ大っきな、そんでもって悪趣味すぎな鎌で、フリフリのコスプレして、なんか偉そうにしてるだけじゃん」
「お前……」
分かる。今、僕の中で沸騰する『ルーイン・サーガ』への想い。音を立ててぐつぐつと……。じっくり煮込んでいた想いが。爆発寸前の憤怒にどうにか蓋をして、吹き零れそうな言葉に何度も何度も水を差す。
僕は、セレナに、『ルーイン・サーガ』の面白さを、伝えるんだ。
「い、いいか。この作品はね、今までの魔法少女ストーリーを、大いに覆すであろう作品なんだ」
ただならぬ僕の雰囲気を捉えてか、セレナはつまらなそうに漠然と返事だけした。ああ、そう、と。いけない。今の伝え方はアニメオタクを相手にした場合じゃないか。アニメを見ない人にルーインサーガを薦めたことはない。そもそもとっつきにくいアニメだ。こういう時どうしたらいい……? アニメを普通の人に勧めることなど、恐れ多くてできない。たいていやんわりと否定されるのだ。さっきのセレナのように。いや、しかし。やるしかない! セレナを屈服させ、アーシェのすばらしさを伝えるんだ。
「お前が言った気味悪い鎌持ってた女の子いただろ? アーシェっていうんだけど。あの子がな、今までのつまらない生活を全てぶっ壊してくれる……。そんな所に憧れているんだ。そこが、いいところの一つだな」
やるしかない! 振り絞って出した言葉は、僕が『ルーイン・サーガ』の本当に感動した気持ち、そのままだった。
「ふぅ〜ん」
ただただ平淡な、どの感情も入っていない返事が僕の耳に入ってきてしまった。やはり所詮アニメオタクの意見、ということなのだろうか。普通の人には伝わらないんだ。だったら、逆に、普通の人の趣味の楽しさを説明してほしい。僕は絶対受け取らない。そっちが偏見と軽蔑の視線を持っているならば、僕だって受け取らない。その面白さなんて。
「分からないか……」
失望に沈む僕のこの気持ちは、おそらく、アニメオタクなら誰だって味わったことがあるはずだ。僕も何度もこの辛酸を舐めたというのに、反省していないみたいだな、馬鹿野郎だ。
「うん、なんか、すっごい好き! っていうのは伝わった」
作り笑顔でセレナは気を遣ってくれている。正直それが一番堪える。今日はあきらめてアニメオタクと普通の人との間にある大きな、ベルリンの壁が存在するのを悟らざるを得なかった。
次の日、僕は驚愕した。
「今日バイトなんでしょー」
昼過ぎ、起きた僕の眠気眼に飛び込んできたのは、『ルーイン・サーガ』とセレナだった。なんと、セレナが『ルーイン・サーガ』四巻を読んでいたのだ!
「これ昨日やってたところの巻でしょ?」
「………」
まだ夢を見ているのだろうか。言葉が出ない。
「何で……、読んでるの」
「暇だから」