二進数の三次元
いらっしゃいませ、と店員が言ってくる。顔は見れないけれど、早くしろと脅迫されているかもと疑心を抱く。
「私これでいいわ」
一番安い、普通のハンバーガーを指差す。いいのか、と問いただすと。
「私はこれが食べたいの。そんなにお腹空いてないし」
気を遣っているのか本当にお腹が空いていないのか。僕は目に付く期間限定のハンバーガーセットを頼んだ。空いていたこともあってか、すぐに食べることが出来た。セレナは質素なハンバーガーを一生懸命頬張っている。
「お前……」
「お前って言わないで」
お腹が空いているなら素直に言えばいいのに。僕に文句を垂れていてもハンバーガーから注意が反れないくらいハンバーガーに集中している。
(正直に言えるような性格なのにな……)
それこそ我侭気ままに生きているようだったのに、今日で少しセレナを見る目が変わりそうだ。だから、そんな謙虚な一面もあるセレナに僕のポテトを差し出す。
「何よ」
「僕お腹いっぱいだから、あげる」
しばらくセレナはきょとんとしていたが、すぐに僕の気遣いに気づいたようで、小さく「ありがと……」と、らしくもなくしおらしく呟いた。僕にもこんな甲斐性がまだあったんだなぁ、と他人事のように思う。同時にセレナのレアな表情を脳に焼き付けようとぼんやり見つめるのだった。
昼食も食べ終わり、手持ち無沙汰になった僕らは、ただデパートをぶらぶらしていた。案外、殊勝なセレナに僕は心を許すようになっていた。
「おい、セレナ。他に何か必要なものはないか?」
訊くとセレナは考えているのか、うーん、とうなる。そしてふとハッとしたセレナは、すぐに口を硬くつぐんだ。
「何、どうした」
「え、別に……」
恥ずかしがるセレナの姿にときめき始めてしまっている。胸が高鳴っているのがいい証拠だ。さっきからなんなんだ、今日のセレナは。
「いや、いいたくないなら、い、いいけれど……」
どもる自分の姿など、ここにあるセレナの姿に比べたら月とスッポンもおこがましい。目を泳がせながら必死に体裁を立て直そうとしているセレナが何を言うかと思えば。
「あれよ……、女の子の……、そう、ナ、ナプキンよ!」
本人はなんともないように言おうとしているのだろうか、声が裏返ったり噛んでしまっていたりと、努力が透けて見えてしまう。気を抜けば変態エロゲー脳の僕は気味悪く頬を歪ませてしまうだろう。しかと口を結び、能面を作ることを心がけて言う。
「お、そうだな。今まで気がつかなかった……。ごめん」
「全く、言わせないでよね……。別にいいけど」
そっけなく言い放ったセレナ。それから調子に乗ったのかあれこれ強請るようになった。例えば雑誌とか、お菓子とか。僕がバイトに行っている間は、セレナは一人ぼっちなんだ、と僕も財布の紐を緩くしてしまった。それでもセレナは贅沢を言いすぎることはなかった。しかし。
「女の子に荷物持たせないでよね」
やはり僕に荷物を持たせた。そうして目的のナプキンを買った後、手ぶらでデパートの中を練り歩き、品定めをしていた。服、菓子、本、そして中古のゲームまで、僕が持つ羽目になった。気づけばこんなに買っていたか。セレナの卑怯な手口に文句も言えないままでいいのだろうか……?
デパートを出たらすでに日が暮れていた。帰路では嬉々としてセレナは僕の前を歩く。空には僅か欠けた満月が帰り道を照らして、昨日の夜のような高揚を覚える。セレナが何故僕の所に転がりこんできたのか、未だにそれが分からない。あの箱が人為的に置かれたのかさえも、分からない。
僕はパソコンの中の世界に憧れるあまり、ついに僕は長い夢でも見ているんじゃないのか? セレナのような現実離れした美しさを誇る少女が現実で、僕と暮らしているなんて、どう考えても異常だ。
「ねぇ、月があんなにも綺麗よ」
セレナが、高名な小説家が講義で発した有名な台詞なんて知るわけないけれど、知っていたとしたら相当な悪女だろう。
「そうだな」
上機嫌で、僕の困惑など知らずに月を指差して僕に知らせるのだから、やはり知らないはずだ。両手のかさばる荷物があるせいで追いつけないというのに、目の前ではしゃいでいる。荷物持ちの僕は怒るどころか、心がとても穏やかになっていく。さざなみの音を聞いているかのような心地。月光からあふれ出る柔らかな光のせいだ。
目の前のセレナははしゃぎ疲れたのか、静かになって月を見上げる。じっと見つめるその後姿にノスタルジアを感じた。そんな要素ないのに。
「セレナ、お前ってさぁ……」
「何?」
お前、ととっさに言ってしまったが、それでもセレナは噛み付いてこない。珍しいこともあるものだ。今日はセレナの初めての部分をたくさん見られた気がする。きっとセレナも楽しかったからだと思いたい。今なら聞いてみてもいいかもしれない。
「なぁ……、セレナは何で僕の部屋に居たんだ?」
静謐な輝きを宿す月を背にセレナは振り返る。はしゃいでいた陽気は一転、影を潜めた。雪原にただ一匹、赤い目をこちらに向けて警戒する白兎のように。
「知らない……。気づいたら全裸で、私は転がってた」
セレナの瞳は赤くないけれど、代わりに潜むは不安の色、揺れる色。
「でも、分かることはあるわ。月を見ると―――、安心する」
また振り返って月を仰ぐ。さっきまで穏やかだったはずの光の波長が、切なく輝きを放っている。
「私がセレナって言う名前だということ。他は何も」
声をかけたら、指で触れたら、いや、僕が今ここから動いても、セレナは月光に溶けてしまいそうなほど、儚く僕の目に映った。これ以上見たくなくて、見られなくて、僕はただうつむくだけだった。月光からも、セレナからも視線を背けた。
「やめてよ、そんな顔しないで。めんどくさいなぁ、早く帰るわよ」
白兎は寂しさから逃げるように早足で歩き始めた。この時、僕はセレナの正体を真剣に調べようと心に決めた。
セレナ……。
そうネットで検索してみた。「Toy Casket」ではまともな検索結果が出てこない。オア検索にひっかかってしまう。限定したところで、海外のサイトにヒットするだけ。読めないわけではないが、おもちゃ関連の情報しか出てこない。だが、セレナで検索したら目当ての情報にヒットした。車の情報が圧倒的に多かったが、それでもたどり着いた。
『月の女神』
だそうだ。他にも、セレーネ、アルテミス、とあったが、ゲームをやってきた僕としては、ルナがしっくりきた。
「セレナが、月の女神……?」
セレナが振り返ったあの時、月の光が切なげに色を変えたことを思うと、もしかして……。