二進数の三次元
バカみたいだ。なんで僕がこんなにがんばっているんだ。訪れた現実脱却のチャンスに、僕は従順に乗っかっているだけじゃないか。どこの誰とも分からない少女に舐められて、我侭放題を受け入れようとしている。僕にだってプライドがあるさ。さっき簡単にへし折れたけれど、何とか立て直してみる。一言言ってやらないと気がすまない。ならばこう思おう。
―――もしかしたら美人局かもしれない。
だったら、ズバッと言ってやるべきだ。ハプニングで麻痺していた、本当の冷静を取り戻してきた。理不尽な言い分に怒りがふつふつと音を立てて煮え立ってくる。叫ばれたりしたって関係ない。おもむろに近づき、今度こそ、確固たる意識で以って。
「だまって聞いてりゃ飯をタダで食わしてやったのに、それはねーんじゃねえのか。頼み方ってもんがあんだろ」
僕にしては珍しく他人に怒った。怒り方を忘れかけていたくらいだ。人間、怒っていれば、そのまま、怒れるものだ。そのまま、怒りを露にして僕は目の前の横暴な少女をきつく睨みすえたまま迫る。
「女の裸をタダで見ておいてよくそんなこと言えるのね」
ジェンダーを利用しやがる卑怯者め、お前の裸を見るくらいならネットで検索かけたほうがてっとり早いぞ。
「そんなこと今は関係ない。掃き違えるな!」
「タバコ臭いの、離れて」
「嫌だね。嫌なら出てけよ。お前みたいな無礼者は呼んだ覚えはない」
身勝手少女はやっと観念したのか、深くため息をついて嫌々謝った。
「すんません」
「よし」
百パーセント納得できないが、手元のジャージを一式渡してやった。
「これなら大丈夫だ。上京してきてから着ちゃいないからな。お前の言う臭いのはないぞ」
「あんた、お前って言わないで。セレナって言う名前があるんだけど。それとね、着替えるから、また気絶したくないでしょ」
「お、おう」
僕はあわてて台所まで避難しにいく。服の、布のすれる音に、胸が異様に高鳴る。リフレインする、セレナの裸にどうにかなってしまいそうだった。
「そうそう、布団も用意してください」
あさっての方向へ放り投げるような敬語のおかげですっと鼓動が収まった。セレナの横柄な言動に感謝しなくてはいけない。怒りが頭を鎮めてくれた。
「もういいわ」
台所から戻ると、クロセ、と胸に名前がついているジャージをセレナが着ていた。ぶかぶかで、しかし、いややはりかわいさが倍増した。ゲーム、アニメじゃよく見るのに現実で見るとこんなにもすばらしいものか。
「掛け布団はあるんだが、敷布団はねーんだ。だからソファで寝てくれ」
明らかに難色を示すが、しびしぶとソファに向かうのだった。
「この服タンス臭い」
「お前、文句言うなら脱げ。そして出て行け」
これで出て行かれたら、と後ろ髪引かれる思いだったが、言ってやった。さっき言った手前、きっちり決めないといけない。だが、どうやら杞憂のようで、ソファに倒れるように寝て、ぼそりつぶやいた。
「ソファもタバコ臭い。あと、お前っていうな」
こうして、僕のあわただしい十一月十一日は終わった。
珍しく朝に起きた。セレナがいきなり肩をがくんがくんと振ってきた。休みの日くらい寝かしてほしい。頼むから、やめてくれ。
「ねぇ、お腹すいた」
「じゃあ自分で作ってください」
薄目で開けて見てセレナも寝起きらしく、昨日の凶暴さよりも、かわいらしさがクローズアップしていく。
(そういや、あのまま寝ちまったのか……)
謎の少女、セレナが玄関に裸で出現してから一晩経った。特別な、本当に特別な事件が起きたのに、僕は動じずにセレナの我侭をスルーした。自分でも眠気の中驚いている。しかし、未だ、何者かによる美人局の可能性も十二分にある。そうやって昨晩は念じていた。セレナの寝息に何度禁断の扉を叩いたか知れないが、開くことなく無事に朝を迎えることが出来たのだ。
「トーストくらい自分で作れるだろ」
セレナは観念したのか、台所を荒らしながらトーストを焼いていた。素性の知れない少女を家に泊まらせる……。これは所謂ラッキーなのかもしれないが、実感が湧かない。そういえば、不意に「トースト焼け」と言ったが、日本製のオーブンを使えたり、会話が成立するところを見ると、日本の生活に慣れているようだ。日本で育った少女なのだろうか。警察に届けたほうがいいのだろうか。セレナの今後を寝起きで考えていたら、トーストの香ばしい香りに僕も釣られて台所に向かう。
「何よ、作るなら待ってればよかった」
セレナの小言を無視して、どうせせびられるであろうコーヒーを淹れておく。
「なぁ、おま―――、セレナは日本人なんだよな? どこから来た? ちゃんと家に帰らないと駄目だろ」
僕の質問など聞いちゃいない。ジャムはどこよ、と呟きながら冷蔵庫をまさぐっている。昨日のことを思い出して訊いてみたが返事は期待できそうにない。と思ったら、冷蔵庫に顔を突っ込んだセレナから、くぐもった声が聞こえてきた。
「だ、か、ら。昨日も言ったんだけど。私は自分の名前と、一般常識知識しか覚えてないのよ」
困ったものだ。一般常識が決定的に欠如しているが本人は気づいていないようだ。妙に納得するのだった。冗談はさておき、おそらく記憶喪失しているのか? しかし、あの短時間で、しかも裸で、玄関に倒れている事実をどう消化する?
「それじゃあ何か? 僕はセレナを警察に届けたほうがいいんじゃないか。もしかしてセレナ、ここに住むつもりか」
「そうよ。警察なんて嫌よ。どうせ長い時間かかるんだからさ」
ずいぶんきっぱりと言って、トーストにジャムを塗りたくり始める。イチゴジャム。
正直な感想としては嬉しかった。しかし、独身定職無し、親とは疎遠。経済的に無理がある……。が。秤にかけたら喜びの比重が強い。
「セレナはその……、僕と一緒に暮らしていくつもり、ってことか。昨日あんなことがあってさ。僕男だぞ? 何か危機感とかないのかよ」
塗り終わったセレナは、僕の質問に怪訝な顔をした。桜色の唇をへの字にまげる。
「別に大丈夫よ。ひっぱたくし。昨日の夜だって何にもなかったし。あんたこそ訳分からなかったでしょ? いきなり玄関に裸の女だもんね。分かる。うん。あんたこそ、私をここに置いていいの? 何か理由があるわけ? いつか襲うとか?」
初めてセレナの謙虚な言葉を聞けた。感動だ。幾分か毒があった気にしない。確かに、僕に下心がないとは言えないけれど、他に強い理由がある。
「あのな……、こんな不思議なことって、滅多にないだろ? アニメやゲームみたいじゃないか。ついに僕にも特殊イベントが、って、思って……」
感動に突き動かされて、思っていることをべらべらと喋ってしまった。セレナの顔を見ていれば失言と嫌でも分かる。顔がどんどん嫌悪でゆがんでいくから。
「キモッ」
僕から逃げるように居間に戻る。あぁ……、一つとして分かってもらえなかった。言っていて自分でも途中からかなり痛いことは知っていたけれど、面と向かって言われるとやはり傷心してしまう。
「あー、そうそう。私にもコーヒーちょうだい」
「……ブラックでいいのか?」
「あまあまにしてよ。泥水飲ませる気なの?」