二進数の三次元
パソコンのハードディスクが回っている音がする。パソコンが勝手にアップデートしているのか? いや、その形跡はない。走っているプログラムもない。と、いうか、パソコンからはその音はしない。キュインキュインと、機械音まで鳴ってくる。もちろん僕のパソコンじゃない。テレビでもない。DVDレコーダーでもない。背中に伝わるのは静かな怖気。空気が震えている気さえする。テレビの音が遠くなり、謎の音がフェードインして増幅する。言いえぬ危機感は神経を蝕み膠着させる。何か居る? ようやく立ち上がれた。音のする方へ。期待してもいいのだろうか……?
音の原因は玄関だった。何故ならそこには、裸の女の子が転がっていたから。
他に思い当たるものがない。
けだるく起き上がった少女の、細い肩と背中のなんと白いことか。玄関にたたずむ闇に光るようだ。薄い光のベールをまとった少女は、画面のなかのどの女の子よりも美しく映る。ただただ見とれてしまう。少女は僕に気づいていないのか、背伸びをして間の抜けたあくびをした。そして、立ち上がりあたりを見回す。
「………」
目が合った。小さく僕は声を発してしまった。少女はただだまって、こちらを見つめる。終末を予想する。ついに犯罪者に成り下がってしまう。何故か知らないがまっ裸の少女が玄関先に転がり込んでいたなんて言い訳、女尊男卑の世俗では通用しない。
「………」
沈黙を破って少女が叫んだら人生終わりだ。だが、少女は依然として叫ぶどころか、僕に乳房や陰部を恥じて隠す様子もなくこちらを射抜くように視線で縛り付けてくる。そしてスタスタとこちらに近づいてくる。目の前に来た。無の瞳に見つめられる。魅入ってしまう。そして。
パンッ!
「何見てんだクズがっ!」
パンッ、パンッ!
「服貸せ」
僕はいきなり、往復ビンタを食らった。面食らった。さらに胸倉をつかまれる。表情ですら無に徹されて、息を呑むことすら困難なほどの戦慄に肺はひゅうと音を立ててしぼむ。
「どうなんだ、貸せないの?」
今度はアイアンクローだ。非力な僕は締め上げられる。その細い腕のどこに、こんな気が遠のくような握力があるんだ。
次に意識が戻ったのは、お気に入りのアニメの時間だった。深夜アニメは僕の生きがいの一つだ。アニメのオープニングで目が覚めるとは、どうやら生粋のオタクらしい。悲しいものだ。
「起きた。この部屋男臭いしタバコ臭いんだけど。どうにかして」
いきなり心臓をアイアンクローされた。そう、隣にちょこんと座るのは、布団に包まったさっきの素っ裸少女だ。ここは僕の部屋だよな。アーシェのフィギュアはしっかり僕を見ているし、テレビもパソコンも僕のものだ。僕の部屋。僕はついに妄想を具現化できるようになってしまったのか? まだ三十歳じゃないのに……?
「どなた様でしょうか?」
困惑で渦巻く僕の口からようやくこぼれてくれたのは、たったの一言だった。
裸で玄関に転がっていた少女は流麗な金髪で、瞳は輝く海のようなコバルトブルー。明らかに僕より年下のアイアンクローしてくるような現実規格外のキャラは好みの僕だけれど、可愛いとか、愛おしいという感情は芽生えたことはない。目を合わせるのが恐ろしくて、少女の顔をまともに見れないが、突き刺さる視線は勘違いじゃないはずだ。こっちを向いている。
「セレナ。それよかお腹空いたんだけど。あと、喉渇いた」
セレナ……? 僕は車オタクじゃあないはずだけど。
「ちょっと聞いてるの?」
突如訪れた不可思議な出来事。何をしたら正解なんだろうか。静かに考えたいのだけど、混乱と雑念でこんがらがって思考がヒューズしてる。僕は大丈夫なのか? 頭がおかしくなりそうだ。堂々巡りになってきた。つまりはちゃんとした思考は出来ていないのか。冷静に、冷静に。僕は現実に生きているし、アニメもちゃんとやってる。アニメを冷静に見れば、きっとこの幻影も消えてくれるはずだ。と、アニメに没頭しようとしても、まともに見られるわけもなく。
(いつの間にか玄関で裸で倒れてて、往復ビンタで、アイアンクローで……)
身勝手に思い出す脳みそが、痛覚を復活させる。そういえばひりひりする頬と、きりきりするこめかみ。どこの誰にも頼んでいないぞこんな破天荒な女は。玄関は鍵かけておいたはずだし、箱があっただけだろうし……。
「箱っ!」
言ったと同時、少女がびっくり仰け反るのを無視して飛び上がる。やはり、玄関には箱はない。玄関に立ち尽くして僕はついに途方もないことを思うのだ。
(箱から、少女?)
薔薇からアーシェが出てきたみたいに? 箱から傍若無人の少女が? 急いで少女に訊く。
「もしかして、箱から出てきた?」
「あ、そうかもしれないわね。どうでもいいから何か食べるもの頂戴」
どうでもいいように不躾を垂れ流した少女はじろりとなじってくる。言われるがままに、僕は台所に向かう。すぐに出来るものがよさそうだ。おにぎりがいい。本当に箱から出てきたのか、あの小さな箱からか? 吸水ポリマーのように巨大化したのか。飯を要求する吸水ポリマーなんて、現代の科学で作れないだろう。もし作れたなら、全国の僕と同じ畑の人間はもっと幸せになれるはずだ。
三つおむすびを作り、牛乳を注いでやる。何を言えばいいのか分からないから無言で渡すと、礼も言わずにおむすびにがっついた。
今さらなのだが、この少女は何故こんなにえらそうなんだ。見た目はものすごくかわいい。それこそ、ネット住民が女神と誇張する声優アイドルなんかよりもずっと。肌もきめ細かいし、晴天をくりぬいたような目はラピスラズリのよう、はじけるほど可憐なブロンドヘヤーは男心を悪戯にくすぐる。見た目外国人なのに、流暢な日本語。しかし、言動に難がある。高貴な雰囲気ぶち壊しだ。最近のアニメにあふれかえっている、この少女のようなキャラ設定でも、リアルに居るとなるとそれは異端になる。その異端こそ、特異なフィクションストーリーにこそふさわしい。
思考を反転させろ。もしかしたら、僕は本当に不可思議の入り口に立っているのかも知れない。僕がこそこそと生きていた中、ずっと願い焦がれていたことがようやく、十一月の満月で!
「ねぇ、服早く貸してよ」
頼む態度じゃない。それが僕の義務であるかの如く強要してくる。さっきから聞いていれば、僕の昂ぶりに水を差すようにかみついてきやがる。勢い任せで反撃しようとする。が、その寸前でくじける勢い。
「あのー」
「訊きたいことがあるのは分かるわ。でも私は何でここに居るのか、何で裸だったのか、何でお腹空いているのか分からないの。分かるのは名前くらい。いいから服を着させてよ。ほら、タバコ臭くない服を、か、し、て、く、だ、さ、い」
言葉の端々に殺意をにじませ僕を凝視する。アイアンクローの恐怖に、僕は簡単に屈服して言葉を引っ込めてしまった。不当な脅しと分かりつつも、追い出していつもの日々に戻るのは嫌だ。仕方なく中身の乱雑なクローゼットを開く。奥に確か高校以来着ていない体操着があったはずだ。服という服を荒らしまわってようやくたどり着いた。
(………)