二進数の三次元
ボランティアとは本来、誰かを助けることに意義がある。僕らは誰かを助けようとして動いているわけではない。自分を助けたいからボランティアをしている。セルフボランティアだ。困っている誰かのためにやるはずが、僕はセレナのためだけにやっている。利己的だ。でも、困っている誰かが身近にいる、それに協力してやるのは間違いではない、だろう?
日が翳ってきている。会場に人が集まっていく。ざわめく中僕はずっと外を見ている。太陽が地平線の向こうに逃げて、やがて夜が来る。―――別れの時がすぐそこまで来ているのかもしれない。落ち着け、というのが無理な話だ。いっそ、セレナを引っ張ってどこかへ連れ去りたい。逃避の衝動に体は従おうとするが、決めたはずだ。セレナを応援し続けると。隣のセレナは普段通りにしている。前に立っているスタッフたちが話を始めて会場は静かになっていく。注意事項を言っているのだろうが、右から左に流れていく。セレナは何回も聞いているにもかかわらず、真面目にしっかり聞いているようだ。
(消えるのが僕になればいいのに)
傷ついたセレナじゃ自らの傷に向き合って、ようやくやるべきことを見つけたのに。それは今日で終わってしまう。
毎日セレナは声無き声で懺悔していた。それを行動で示していた。『たかちゃん』達に襲われることも省みず努力した。それが報われてもいいはずなんだ。
「それでは皆さん、よろしくお願いしまーす」
「お願いしまーす」
会場のボランティア員がまばらに返事をして動きだした。心を現実に突き飛ばされて呆けている最中、セレナに声をかけられる。
「いこう」
固く結ばれた声。ダイヤモンドよりも強固で高貴だ。輝きは瞳のきらめき、それと、内に秘める心痛。雪兎は今、僕の元から離れる覚悟をしたんだ。
(そうか……)
セレナのためにこの二週間を過ごしてきた。覚悟はしていた。最期まで共にいると。それが僕とセレナの絆の証になる。
「うん」
出来るだけはにかんで、セレナの先を歩く。いつ来るか分からぬ宿命。確実に、一歩ずつ、そこに向けて歩いてゆく。
この前僕も来た駅前。
街には木枯らしが吹き宵闇へと移ろうとする世界の瑠璃色。それを派手に打ち消すイルミネーション。幸せそうに手をつないで歩くカップル、寒さに震えるリーマン。ここが最後の晴れ舞台。きゅっと固く僕の袖をつかんだ感触。わずかだけれど聞こえてくる迎えの音。
リィーーーン、リィーーーン、リィーーーン……。
不思議な音だ。以前聞いた怪電波より澄んでいて、聞いていて心地いい。宇宙に音はないはずなのに、まるで遠くから僕ら、いや、セレナを呼ぶように響く。
(ついに来たか)
迎えの鐘の音は僕らの不安を駆り立てる。僕は見えない上空を睨み、僕はめいいっぱいの気持ちでその手を握りしめ、目を閉じる。
言葉というのは、音にすると急に脆くなってしまう。移ろう空の色に溶けてしまいそう。セレナに愛していると伝えたい。それだけじゃない。稚拙で堕落した僕のあまりにも多い欠点さえ洗いざらい伝えたいんだ。僕の全てを言い表す言葉で、それを伝えるための言葉なんて、月を、太陽系を、アンドロメダ星雲を、彼方のブラックホールを探しつくしても存在しない。
五秒だったか、十秒だったか、その時間は分からない。ただ、僕らは立ち止まっていた。他人からどう見られたかも分からない。そんなことはどうだってよかった。セレナが指を離したのを合図に、目を開けた。手作りの募金箱を確かに手に持って、腕時計が六時を指すのを見つめる。スタッフがメンバーに時間を告げる。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
率先してセレナが声を出す。その声は道行く人たちの耳に届いて、その美貌と快活さで男女関係無しに興味を引いていく。クリスマスということも手伝って、幸せそうな人々はほんの少しの幸せでもと、分けようとお金を募金箱に入れていく。
「ご協力ありがとうございます。よろしければこちらプレゼントになりまーすっ!」
セレナが渡したプレゼントを人々は受け取って帰ってゆく。その背中をセレナは見送っていた。
リィーーーン、リィーーーン、リィーーーン、リィーーーン……。
この音が聞こえる僕には、セレナの姿は消える星の瞬きのよう。その姿をかき消すよう僕も言う。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いします!」
幸せそうな子連れ家族。その子供がプレゼントのお菓子を貰ってはしゃいでいる。若い夫婦の妊婦はそれを見てお腹を撫でて微笑んだ。あぶれ組みの学生男子達は、騒ぎつつも純真な気持ちで募金していった。へとへとの中年リーマンは、財布の中も寒いだろうに「お疲れ様」と一声かけてくれた。ガラの悪そうなカップルは、「オレ、一日一善って決めてっから」「はぁー? じゃあなんで昨日プレゼントくれなかったの」「いや、そりゃ、昨日バイトだったから」と千円札を入れて仲睦まじそうに帰っていった。高そうな紳士服を着た老人は一万円を入れてくれた。その後、お小遣いを貰いそうになった。女子高生はちょっとうつむいた顔でそっけなく入れてくれた。セレナと同じような、ブロンドへアーの女性も入れてくれた。日本語がほとんど話せないのか、終始ボディランゲージだった。車椅子のおばさんを押す、友人であろうおばさん。クリスマスなど関係なさそうに暗い顔をしていても入れてくれた。
―――僕が知らないだけで、こんなにいろんな人々がいるんだ。知らない、というより気づこうとしなかった。いろんな人の、いろんな表情と言動。全て違えど、目的は違えど、何かをすることで繋がっている。目に見えぬ、他人同士の繋がりなど信じるに値しないと小馬鹿にしていた。こんなのただの感傷かもしれない。人に裏切られたらこの気持ちを裏切ってしまうだろう。
それでも……。僕は大事に取っておきたい。信じるものの足が掬われる世代に、僕はそれでも救わると信じてみたい。もうセレナはとっくに感じていたんだ。呼びかけるセレナの目はらんらんと意気込み、この聖夜の街頭を照らすライトアップをかすませる。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーすっ!」
僕の熱い視線に気がついたのか、にっこり微笑んで僕の顔に手を伸ばす。
「泣いているの?」
「え……」
人目をはばかるように小さい声だった。泣いているのか僕は。目を拭くと確かに濡れていた。取り繕うようににかっと笑ってみせる。
「いや、こうしているのも、いいなぁって」
一瞬セレナが困った表情をして、すぐに笑顔で隠した。
「そうね」
キン、キン、キン、キン、キン―――。
音が断続的に聞こえはじめた。僕の顔色で悟ったのか、さらに笑顔になる。
「そう、もうすぐ。……かも」
僕ですらこんなに強く聞こえるのだ。セレナにはとっくに―――? 今更気がついてもどうしようもない。せわしなく、まるでせかすようにセレナを責めたてる。
「なぁ―――」
僕は言ってその先をすぐに引っ込めた。何度も決めただろう! 言っちゃいけない、言ったらセレナは消える。でも、どうしようもない。僕らは繋がっている。