二進数の三次元
勝手に返事した口はすぐに閉じて緊張で一文字になる。ソファに向かって歩くだけなのに、生きた心地がしない。薄く目を開けて隣に座る。腕も、うなじも、足も見れない。せっかくの『ルーイン・サーガ』のオープニングは結局見れやしなかった。本編が始まる。ここからはしっかり見よう。先週はいいところで終わったから今日はきっと面白くなるんだろうな。しょっぱなから剣戟のシーンが始まった。食らいついてこようとするカコデモン達に大鎌を滑らせる。カット枚数が普段より多い。低予算のアニメ業界でこれはそうそう出来ない。カコデモンは夜の闇からうじゃうじゃと湧き、それを切り払うアーシェ達。キリがない。夜から影を取り除くようなものだ。そしてやはり味方のウレオとアウリルが「先に行け」と展開を見せる。チャットとフェリオのコンビプレイは原作の違う敵で使っていたものを出してきた。これは評価が割れるだろうが、ファンからすれば見たかったシーンだ。主人公の統治が剣を構えると、うごめいていたカコデモンたちの闇が飛沫となって体に降りかかる。そのしずくがあっという間に統治を覆い満たす。漆黒の化け物と化した。カコデモンが近づこうとしても、その渦巻く闇にかき消されて統治に吸収されてしまう。漫画でもこのシーンは大人気だった。僕もこの統治の変身は大好きだ。敵の作る堅牢な結界を剣の一振りでなぎ払う。アーシェは破壊された結界の中へと急ぐ。悪魔となった統治もそれに続く。その中には巨大な赤ん坊の顔にタコの足のような触手が生えたような不気味な悪魔。追い詰められる。
「何故だ、男。お前は、女、そいつに殺され、れる、のだぞ。ケケケ。理解、を、に、苦しむ。協力、した、するのは何故? その剣をあれ、これ、こっちによこせば、いいものを。男を救うのは私だ。さあ、女、を殺し、世界を得よう―――」
と、ここで言葉が途絶える。統治がうるさいハエを払うように右手の剣を振った。斬られた触手の一塊が転がり、醜い悲鳴が上がる。
「ピーピーピーピー聞いてもねぇことを。悪魔ならどっしり構えろ」
人間の統治が悪魔に悪魔の何たるかを解いた。もっとも、今の統治の方が悪魔らしいから、その説得力は覇王の凄みに近い。
「わ、私を切れば、切る切る切るだけ、ほど、その剣に力が溜ま? る? のだぞ! 生贄の羊は、その運命を、知れば逃げ出すと言う、のに?」
無邪気な子供のような声の悪魔は、統治の愚かさを気づかせようとする。しかし。
「どうだっていいよ、そんなこと」
もちろん、悪魔の言っていることは本当だ。それすらお構いなしに、統治はよく喋る赤子の悪魔の言葉を切り捨て、顔に剣を突き刺した。
「前置きはいいから、早く出てきなさいよ。アルハハン」
アーシェは至高の愛を注ぐ大鎌、ブランを横に薙ぐため構える。統治によって無様に切り刻まれた顔は、悲鳴を上げずに闇に霧散するが、暗闇の霧の中から巨木のような馬の足が出でる。姿を現したそれは、腹にいくつもの赤子の顔を並べ、能面のような面を首にはっつけた、歪んだのっぺらぼうにヤギの角。本物のアルハハンだ。
「何故悩まぬ? 人は自我の保存に徹しているはずだ」
本物のアルハハンは無邪気な子供の声ではなく、しわがれた老人のような声。重く低く、言葉だけで抑圧できてしまいそうな威圧感。悪趣味な仮の姿とは打って変わって悪魔のそれだ。
「あなたはそこにつけこんで、人を食らうのでしょう?」
「悩んでるヤツだけ相手にしてなよ。オレはアーシェに会ってからそういうのから関係なくなったから」
「女、お前は、後ろめたくないのか。ブランがそんなことをして喜ぶとでも思っているのか」
言いよどむこともなく、アーシェは言葉の凶刃で薔薇の造花を紡ぐ。
「統治も大事よ。けれど、私の愛はダディだけのものだもの。それは統治も分かってくれている。何より、ドブネズミより醜いあなたにダディの名前を出されて私はどうにかなってしまいそうよ」
大鎌を持つアーシェの手が強く握りこまれる。その内に秘めたる憤怒の力は、真紅の渦となってアーシェを取り巻く。アーシェが覚醒する。
「死のうが生きようが、そこじゃないのさ問題は。よりしたいように、『楽しい』方へ。命なんてもとよりあってないようなものだしな」
統治の纏う闇が暴走を始める。その闇は縦横無尽に動きまわり、やがて姿を安定させていく。もはや人の姿をしていない。闇の怪物。赤い瞳。肉薄する両者、死すら想わせないような異次元を感じさせて、エンディングに入っていった。
(………)
ド肝を抜かれる……。悪魔はいったいどっちなんだ。悪魔のほうがより人間らしかった。でも、悪魔じみたアーシェたちが僕の中の未練というか、ぐずぐずと踏ん切りがつかなかった気持ちにとどめを刺してくれた。自分のしたいよう、楽しいほうへ。
今の僕はセレナと出会う前の『ルーイン。サーガ』を知って面白いと感じたときよりは、楽しいと思うことが多くなっている。
それは何で?
隣のセレナを見た。
見れたから思う。セレナのおかげで僕は今までの僕から離れることが出来た。他人と話すことに抵抗を覚えなくなっているし、素直に考えることを放棄しなくなりつつある。何よりも、セレナのことを、他人を、大事に想う気持ちがちゃんと心にあるのだと今なら分かる。
では、僕のしたいことは?
隣のセレナはエンドロールを見ている。僕が凝視していることに気づいているかもしれない。僕を変えてくれた異変、その日常、その性格、美貌。統治の日常を変えたアーシェのように、セレナ、君が変えてくれたんだ。君への恩返しがしたい。そして、いつまでも君といたい。こんな風に思わせてくれた君だから、一緒に居たい。吹っ切れた僕は言いたい。僕なんかが口走っていい気持ちじゃないかもしれない。あと一週間の関係と割り切ってしまえば楽かもしれない。でもそれは僕のしたいことじゃない。僕が一番したいことは、君に想いを伝えることなんだ。
エンディングテーマがフェードアウトして、『ルーイン・サーガ』は終わった。僕はテレビを消した。当然セレナは僕を見る。
「どうしたの?」
そうは訊くが、セレナなら少しは勘付くだろう? 僕が今から何を言おうとしているかくらいは。
「いや、その……。うん。セレナ、もう消えちゃうんだなぁーって思ってて」
(いや、そうじゃねーだろ!)
もう言っている途中で引き返したかった。しかし、退路はない。セレナはあっけにとられて口をぽかんと開けている。しばらくセレナはそのままで、僕をまじまじと見てくるが、とたんにくすくすと意地悪く笑う。
「なん、なんだよ! たまにはこーゆうこと言ったっていいだろ!」
血が流れる音が聞こえそうなくらい顔が熱くなる。それでもセレナは止まらない。ひとしきり笑いつかれてふぅ、と一息ついた。愉快そうに笑っていたはずだが、重く首もたげうつむく。
「告白でも、しようと思った?」
「なっ!」
「………。分かりやすい」
そうだよな、やっぱ分かるよな。揚げ足を取られたけど、潔くなれる。否定は出来ない。しない。自分がしたいって思うことに嘘をついたら灰色になっていずれは消し炭だ。あの街の一部になってしまう。そんな世界をブチ壊すのは、僕の言葉だよ。