二進数の三次元
来週の月曜日、セレナと過ごす最後の日曜日になるかもしれない。こんなことをいちいち悲しむ僕は女々しいとあざ笑わう人はいるだろう。僕がその一人だから、被害妄想が強いせいで誰も責めもしないのに自分の感情を押さえつけてしまう。
「そうか、来週の火曜なら空いているから一緒に行くか」
「そうなの? また無理にスケジュール合わせたり―――」
「いいって言ってるだろ? 大丈夫だって、本当に空いてるんだから」
僕はセレナと一緒にいたい。それが素直な気持ちだ。募る気持ちは膨れて、いずれその日にはじけてしまう。だから願いたくない。それにセレナは帰りたがっているかもしれない。僕がセレナに頼み込むのはおこがましい気がする。それに……、それを言うということは、告白するようなものだ。
「分かった」
僕の言葉をさえぎるように強くセレナは言った。それ以上の言葉はなく、静かな食卓に戻ってしまった。しかし、セレナがいきなり大皿から退寮にパスタを持っていく。誰も横取りはしないのに。
「箸……、じゃなくてフォーク止まってるよ! 食べちゃうもんね」
もしゃもしゃと食べては吸っていく様は、フードファイターも顔負けの食べっぷりだ。セレナなりの気遣い、なんだろう。
「どうぞー」
どうしたってセレナの心労を解いて上げられる言葉は僕にはない。もともと女と喋るだけで緊張するほど腑抜けていたんだ。そんな奴は天地がひっくり返ったところで大事なことすら切り出せない。
自らに失望するのは慣れているから大してショックではない。パスタとサラダを食べて後片付けをする。この時もセレナは手伝ってくれる。皆既月食は僕だけでなくセレナにも強く影響しているようだ。
皿洗いを終えればいつものようにセレナはソファを独占する。この習性は変わらない。僕はパソコンの前。いつもの風景。でも、時間は進んでしまう。いつもと同じことをしようが悲壮な未来があろうが、関係なく等しく刻んでゆく。面白い動画やサイトを閲覧しても、焼き増しのようなドラマを見ても時間は戻ってこない。ただ時間を消費し続けるだけなのか。僕はセレナと話して時間を消費したい。あわよくば触れたい。またこんなしょうもない衝動が僕の心をキリキリ締め付ける。意識してしまっている僕に、このソファとイスの距離は遠い。
「お風呂沸かしてあるから、先に入ってくれ」
「はぁーい」
ドラマの続きを気にするそぶりも見せずにセレナは風呂に向かった。時間よ、早く今日を終わらせてくれ。微妙に踏み出せないこの空気をリセットさせたい。希望通りに三十分という時間があっという間に過ぎてしまった。
「上がったよー。入らないの?」
「入るよ」
セレナが来たとたん、時間がゆっくりになってしまう。湯上りのセレナは傍を通るだけで僕を誘惑するようだ。上気した頬が、シャンプーの香りが、なによりその日本人がうらやむ天使の跳ねのような軽さと美しさを秘めた髪が卑怯なまでに魅力的だ。逃げるように風呂へと急ぐ。お風呂から上がったらセレナは寝てくれていないか。僕には寝込みを襲うような勇気も男らしさもないから、そのほうが助かる。しかしセレナは寝てはいなかった。不意打ちのように突然目の前に現れて、
「ハイフハヘフー?」
カップアイスをよこしてきた。セレナは棒アイスを咥えながら無邪気に振舞う。
「お、ありがとな」
どぎまぎする心を悟られぬように努める。丁寧にもスプーンも渡してくれた。いつものイスに座るのだけれどPCは見たくない。あんな可愛い姿を見せられたらセレナを見たくなる。つまらなそうにあくびをして棒アイスを舐めずにがぶりと食らいつく。シャクシャク、と軽い音だけなのに何千万と金が動いているはずのドラマより楽しい。うれしい。カップアイスの周りがやわらかくなって溶けていってるのが分かる。そんなに見とれていたのかと、意識をカップアイスに集中させる。セレナと僕は愛すを食べている。シャクシャク、シャクシャク、セレナは食べ終えてしまう。僕はまだ食べている。残ってしまっている。一気に味気なくなる。食べたくなくなる。
(あ、ああ……)
声にならない声は、どこにも伝わらずになかったことになる。こういうことなのかもしれない。こんな小さな喪失にすら僕は弱くなってしまっている。セレナはアイスの棒を捨てた。僕も捨てたい。でも余っている。もったいないと思ってしまう。
「何ぼーっとしてんの」
ソファから頭だけをだらん、と逆さにしてこちらを見てくる。
「ん、考え事」
僕は一気にアイスを平らげて台所に逃げる。ちょっぴり涙を飲んだ。甘いのにしょっぱい。止まれよ、無駄に動くな思考。こんな気持ち一過性の気まぐれなんだ。消えたところでどうせきっと十年後には忘れているんだ。便利に忘れるように出来ているんだろ、脳みそは! 忘却に徹するように紙カップを無駄に丁寧に洗って捨てる。
意を決して居間に戻ると、セレナが気を利かしてアニメ専門チャンネルにしてくれた。と、いうことはもう十二時なんだ。変身バトルものだ。あんまり興味がない。録画対象でもないのに、見たいアニメの前にやってるアニメってどうしても見てしまうな。
「ねぇ、前から思ってたんだけど、なんで変身中に敵は攻撃してこないの?」
突拍子もなく元も子もないことを。そんなこと言ったら魔女っ子ものとか、特撮ものとか成立しない。
「まぁ……、その疑問はごもっともだな。よっぽど空気読めない敵だと攻撃してくるけど。こういうアニメは変身するのが一番の見せ所だからさ」
「そういうものなんだね」
納得するしかないんだ。その前提があって初めてかっこいいと思えるわけだ。幼稚園児はその前提を生まれながらに持っている。
次のアニメはちょっと興味はある。レコーダーのタイマーが起動して録画が始まる。働く女性達の日々を淡々とコミカルに描く、所謂日常系のアニメだ。片手間でいい。インスタント食品のようだ。食べすぎは審美眼を粗末なものにする。さっそくセレナは笑っている。女子高生ものとかにすればウケはよりいいものの、そこをあえてOLの、しかも女のリアルな部分を全面に押し出しているのは、ある意味挑戦だと思う。こういう売れる萌えへの反骨精神を見せられると見たくなる。
「このアニメ面白いけど、なんか女の私から見ると虚しくなるときあるわ」
「セレナ確かにあれくらいズボラだもんな」
「んなわけないでしょ!」
「……ま、そうだといいな」
せっかくアニメのおかげで忘れられそうだったのに。気まずくて目を伏せた。何かをしていれば忘れられるほど僕は単純じゃない。神様だったら煩悩を消せるだろうか。セレナに頼むのは皮肉だろう。
会話が無くなってCMだけがこの苦い空気を通り過ぎていく。やがてお目当ての『ルーイン・サーガ』のオープニングがかかるけど、僕は目で追わずに、ただ端っこに映しておく。セレナはソファで寝転がるのを止めて普通に座りなおした。セレナのうなじに目が行ってしまい、気づかれぬうちにテレビに戻す。
「ね、始まったよ。そんなとこでいいの? もっと近くで見なよ」
背中越し、セレナは言うのだった。表情は見えない。ここ、というのはぽんぽん、とソファを叩いた場所、セレナの隣だ。
「あ、あー、うん」