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明梨 蓮男
明梨 蓮男
novelistID. 51256
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二進数の三次元

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 セレナは本当に申し訳なさそうに繰り返し謝ってきた。「今まで思い出せなくてごめんなさい」。そんなこと言われ、僕はなんて返せばいい? 今思えば、あの耳鳴りは部分月食の時間帯からセレナが訴えてきていた。前兆だったのだ。気づくわけもない。皆既月食を原因に、セレナの記憶は戻った。月がなくなっていくとき、一心に月を見上げていたセレナは「ものすごく悲しい気持ちになった」らしい。郷愁の思いに浸っていたようだ。そうして記憶のきっかけを初めてつかんだセレナは、全ての、神としての何千年の記憶の津波に襲われた。それは人間の僕には想像もつかないダメージだったに違いない。
 僕とセレナの間には、あれからずっと虚空が広がっている。時計の秒針が鋭く部屋に響く。お互い、何を話して、これからどうするのか、どうなるのか。分からないから押し黙るしかない。マイナスの感情すら湧かず、ぽっかりと開いた穴は塞がらない。気まずいのは重々承知でセレナの隣に座る。
「月、ってさどんな感じなの?」
 耐えられない、この空気。つまらない会話でしか話を切り出せない僕を許してくれ。
「………。月? うーんとね、何もないなぁ。ウサギはいるのよ。ウサギは白兎しかいないわ。ただただ一面、岩だらけ。目の前にはぽかん、と浮かぶ大きな地球。吸い寄せられるくらい青いんだよ。あっ、でも、他の月の神様もいるのよ。月詠の命さんとか、ヘカテーさん。あと日本で有名なのはかぐや姫かなぁ」
 故郷を懐かしむように、穏やかに楽しそうな声色で話してくれた。どうやらセレナも同じ気持ちだったみたいだ。そうだ、もっと聞かせてくれ。
「そういや、月って何か食いものあるの? 大食いのセレナが何でお腹満たしてるのか気になるな。兎か?」
「失礼だなぁ! ウサギさんは食べないよ。私一応神様なんだよ? 信じてくれる人が居れば、存在はできるの」
「あ、結構……、いや、セレナにとっちゃ最近か。ロケットが月に行ったはずなんだけど、知ってる?」
「何度か来てるわよね。知ってるよ! 私初めて来たとき見に行ったもの。だぼだぼな服を着てずいぶん危なっかしく歩いてたなぁ。ありがたそうに石ころ持って行ったし」
「それ多分月の石って名前ついたぞ。昔あった万博っていうイベントでそれが目玉だったらしい。何千人って見に行ったらしいから」
「ほんと、人間って変ね。ただの石でそんなに人が集まるなんて。空想の話にこり続けるサタローも充分変だけどね―――、だから私、地球に行きたいって思ったのかもね」
 やはり、すぐに静寂に包まれる。僕らの間にある穴を埋めるのは言葉では足りない。肉薄してくる違和感にさいなまれて、次の言葉すら求めるのに精一杯だ。
「私、ボランティアするわ」
 何の脈絡もなく、いきなりセレナは宣言した。セレナにも穴は見えているはずだ。しかし、セレナは大きく声を張って決意を表してくれた。残りの時間を使って罪滅ぼしをしようと、トラウマに打ち勝とうとしている。健気で不器用なセレナの、残り少ない罪滅ぼしに付き合ってあげるのが、僕の精一杯出来ることだ。頼まれてないけれど、してあげたい、と思った。
「うん、そうか。やろうか」
 そうして、僕らのタイムリミットは動き出した。


 セレナが決心した。僕も決心しないといけない。次の日バイトを休むことにした。この間一緒になった新人君に代わりに出てもらった。以前代わったこともあったからか、快く代わってくれたのがとても嬉しかった。
 出来るだけ遠く、セレナの行った逆の方向でボランティアする。NPOセンターがある駅は、大抵大きい。つまるところ、人通りが多いところだ。セレナのトラウマを考えると憂慮するべきなのだろうが、そんなことで足を止めていては前に進めない。セレナの決意を肌で感じた僕は応える。事前にセレナに訊いてみれば、さも当然のように二つ返事で了承してくれた。
 前もって電話で話を通しておいたので、事はうまく運んだ。NPOセンターの会議室に通されて、そこで説明を受けた。周りを見れば、高校生の集団やら、壮年の人々、おばちゃんの集まりなど。多種多様だったが、外国人は居ない。だから、セレナの天の川のような美しいブロンドヘヤーは、まるで醜いアヒルの子のように目立ってしまい、視線がこっちまで来る。ところが当のセレナは気にも留めずに、説明を受けている。視線というのは意識すればするほど刺さるものだ。他人の恐怖をまざまざと師ら占められたセレナには、かなりの負荷のはずだが……。もしかしたらセレナの肝っ玉なら、本当に気になっていないかもしれない。
 僕らは駅前の広場で募金することになった。笑顔で、大きな声で。説明ではそう言われていた。抵抗を覚える。僕には向かない。接客業をしていても、笑顔を作ろうものなら、硬直して表情筋が引きつって頬が勝手に上がって、どこからか切って貼り付けたような笑顔になってしまう。大きな声が響くのも恐ろしい。聞き障りな僕の声で人がこっちを向くのだから。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
 パッとしない僕とは対照的にりんとした立ち振る舞いで、花のような笑顔で、そしてよく通る透き通った声で、さっそく慈善活動に精を出している。昼でも容赦なく吹きすさぶ北風が、身を震わせ体温どころかやる気も奪っていきそうな中、率先してセレナは声を次々にかけていく。そのやる気は、他のボランティア員を置いてきぼりにするようで、セレナ一人でやっているかのようだった。
「サタロー! ぼさっとしないでよ! 声も小さいし、笑顔だって―――、ありがとうございます!」
 セレナの一生懸命を見るのに一生懸命になっていたら、肩をはたかれた。怒った後だというのに、募金してくれた人にはしっかり笑顔で言うあたり、神様も人間も、女性は表情を簡単に操れるんだな、としみじみ思う。他のボランティア員だって、僕とそんなに変わらないじゃないか。
(でも、やらないと)
 いや、そんな受身でやってはいけない。もっと自発的にやろう。
「あ、あかっ……」
 呟いただけで、自分の声の気持ち悪さに嫌気が差す。僕の声はセレナのように美しくないし、僕は容姿だって醜い。こんな僕を見知らぬ誰かに注視されたくない。
「あ、っかい羽、共同募金に、ご協力お願いしまーすっ!」
 やるんだ、と決めた。こんな簡単なことすら出来ないから、僕は駄目人間なんだ。響く僕の声。十年ぶりくらいにこんな大きな声を出した。自分でびっくりしてしまう。
「なんだ、出来るじゃない。あとは笑顔ね!」
 僕を励ました後も、セレナは声をかけるのを休まない。簡単のはずが、僕にかかれば難しいことになってしまう。
「ありがとうございます……」
 僕の声を聞いて募金してくれたおじいちゃんに作り置きの笑顔を、出来る限りの、全力で。
「がんばってね」
 おじいちゃんが返してくれた笑顔のほうがいい。胸を撫で下ろした。嬉しいと素直に思えた。この募金で誰かが救われるのなんてどうでもいい。セレナはセレナ自身の欠損を埋めたい。その協力をしてやりたい。だからやっている。結果的にどこかの誰かが救われるのだろう。もしかしたら、セレナも僕も、きっとそのどこかの誰かの一部なのかもしれない。だから、声を出す抵抗が薄くなった。
作品名:二進数の三次元 作家名:明梨 蓮男