二進数の三次元
セレナには悪いけれど、昨日のうどんを食べてもらうことにした。火を使わせることはためらわれたので、おわんに移してチンするように書置きを残しておく。僕には何か食べる余裕はないから、着替えて身支度することなく部屋を出た。
バイト先では僕のせいで上がれないメンバーが、やっと来たかと顔に書いて迎えてくれた。悪いのは一方的に僕のほうなので、平謝りして帰した。同じ時間帯の、最近入った新人メンバーにも謝っておくと、こちらは愛想良く「今日空いてたんで大丈夫っすよ」と言ってくれた。ものの十分でそれは証明された。きっと今日は何かイベントがある日なんだろうと推定する。今日は土曜日だから、特段空く要素があるわけでもないが。
焦ってきたからか、ある程度時間が過ぎてからまたしても今朝、いや昼の欲情が沸き立つ。前までセレナを見ていても、ただ綺麗だとか、かわいいとか、まるで、そう、ただのキャラクターとして見れていたのに。それがどうした。久しぶりに会ったセレナが弱弱しく、そしてしおらしくなっていた。泣きつかれただけでこうも簡単に心が揺れるのか。店に流れているBGMの歌手が、僕をからかうように「会えない時間 長くて長くて 二人の愛 育てていくよ」と歌う。
(くそっ、僕としたことが)
こんなくだらないうわっついた曲にさえ諭されてしまう。それが嫌で嫌で仕方がない。が、しかし、その反面うれしくもあるのだ。僕もまともに恋が出来る人間だと実感できた。この二十四年間、色事には無関係だった僕に初めての感情。浮ついた心、相手の全てを欲しくなる衝動。
(キモチワリィ……)
僕は僕なのか? ちゃんと僕は僕でやっていけているか? 顔はキモくなってないか? 平然としているか?
「どうかしました?」
「おっ! だ、いじょうぶっ、でっす!」
驚きすぎて、でかい声で思いっきり噛んでしまった。どうやら他人から見たらその様子はよほど面白かったらしく、新人君は笑うのを我慢して、口の端がひくついている。客が居なくて本当によかった。
「今日なんかあたふたしてますね」
妙に抑えたトーンで言ってきた。そこまで面白いかよ。どうせキモいとか思ってるんだろ。悔しくなって浮ついた思考を弾き飛ばす。平常運行の顔に戻す。
「何かいいことあったんですか?」
何でお前に言わなきゃいけないんだ? とも思ったけれど、僕はメンバーの人たちとコミュニケーションを取らなすぎる。だから、珍しくまともに返事することにした。
「そ、そうですね。ちょっと、気になる人が出来まして。あ、現実でですよ?」
僕は真面目に答えた。この新人君は、今までのメンバーの中では割とちゃんと僕を見てくれていると思ったからだ。馬鹿にするとか、つまらないとか、顔に出さない。だから、ちょっと信用したのに、新人君は噴き出して笑う。
「ぷっ! あーははは! そりゃ分かってますよ! 面白い人だなぁ!」
何がそんなに面白い? 僕に現実で好きな人が出来たから笑っているのか? 大口開けて笑うほど? 訝しげに睨んでみると、あ、すいません。と笑うのをやめた。
「それでなんですか? 好きなコが出来たんですよね? どんなコですか? 教えてくださいよ」
普通の男子高校生の新人君は、とても興味津々そうに訊いてきた。活き活きとした瞳に負けて、僕はつい口を開いてしまう。
「えっと……、すごい、美人、かな。外人なんだけど、日本語上手で……」
「えぇー! うらやましいな! プリとかないんですか? 見せてくださいよ!」
プリだなんて言葉、僕に向けられるとは思わなかった。こそばゆい。慣れない響きに動揺を隠せない。
「え、あ、プリクラなんてないよ。とっ、とったる、いや、撮ったことすらないし」
責められているわけじゃないのに、さっきよりひどい噛み方をしてしまった。いたたまれない。いつもなら懐疑の口先であしらい、無反応無関心無表情の仮面で跳ね除けるはずなのに、僕は新人君を疑いたくないとまで思ってしまっている。だから、跳ね除ける術がない今の僕はどうしていいのか分からなくなる。
「マジっすか。あ、でも、僕の友達にも居るんで、結構居るのかもしれませんね。やっぱり恥ずかしい、っていうのがあるんすかね? で、そのコとはどこまでいきました?」
ああ、もうなんでこんなときに限って客がこねぇかなぁ。頼むからきてくれよ。皮肉とか、暗に含まれた声が聞こえないんだよ。でも、それが……、うれしかったりもしたのは事実だ。僕も普通の、一般人とこんな話をしてもいいんだ。今だけなら、嬉しい勘違いをしてもいいか?
「どこまでとか、そういう感じにはまだ……」
「えー、そうなんだ。―――あ、いらっしゃいませー」
ようやっと! 待望のお客様が来てくれた。もう来て欲しいと思うことはこれっきりだろうな。隣の新人君はうらめしそうな視線を客に送り続ける。そんなに聞き出したかったか。
僕から話を引き出そうとする新人君の思惑に反して、これを皮切りにその日は今までの暇が嘘のように忙しくなってしまった。
帰りしな、僕は新人君に口止めしておくことにした。
「あの、他のメンバーには話さないでね。あんまり訊かれたくないからさ」
「へ? あぁ、ごめんなさい。なんかそんなに話したことなかったんで、喋ってみたかったんです。大丈夫、内緒にしておきますよ。好きなコの話で照れるなんて中学生みたいっすね、クロセさん」
人懐っこいメンバーを僕はまだ疑っている。もしかしたら話のネタにされるかもしれない。だから念には念を押す。けど、こういう疑念こそが人を遠ざける、最大の理由であることに気づいた今日の僕は、いつもしていることなのに、心苦しい。だったら人を信じてみればいいのだ。簡単なことだ。いやしかし、裏切られることも簡単だ。裏切られないように生きる術を身に着けて、それで僕は何か変わっただろうか。傷つくことはなくなったが、刺激的な日々は送れていただろうか。僕はそういうのに縁がないと決め付けていたんじゃないのか?
どちらにせよ、人はそう簡単に変われない。けれど、人に言われて変わるよりは自発的に気づき変化するほうが明らかに進歩出来るはずだ。人がやはり怖いが、今よりは人と接しよう。帰り道に長々と、今日の出来事を思い返した。素直にうれしいと思う。帰ったら、セレナの写真でもケータイで撮って、新人君に見せてやろう。珍しくバイト帰りで早足になる。夜空を見上げれば、まん丸のお月様。満月とともに来たセレナと出会ってからもう一ヶ月になったのか。早いものだ。と、いっても一緒に居たのは半月ほどなのだが。けど、セレナのことは誰よりも知っているつもりだ。セレナの言っていた、『たけちゃん』とやらよりも、何百倍知ってるつもりだ。
「ただいまー」
玄関を開けて一言。部屋に明かりがついている夜は久しぶりだ。セレナが
起きている、セレナが居る。そんな異常を当たり前と思うようになったあたり、僕は本当にセレナを生活の一部として見ているようだ。感慨深くなっているのもつかの間、足音が近づいてくる。セレナが迎えに来るなんて初めてのことだ。笑顔でこっちにくる―――。
「遅いっ!」
パンッ!