二進数の三次元
着いた頃にはもうすっかり暗くなってた。流石に撒いた。周りには誰も居ない。私はついに逃げ切ったのだ。そう実感すると、今度は疲労感と、後悔が肉体を蝕んでいく。歩く足も重い。考えたくない。今は眠りたい。
サタロー、起きてるよね……。
それは甘え。よくよく考えてみてよ、ずうずうしいよ。私は罪を償うんでしょう? 私があそこに帰ることはもうないんだよ。そう言い聞かせる。
公園が目に付いた。ベンチがあった。休みたい……。満喫は駅の近くにあるけど、一文無しだ。いよいよ年貢の納め時かもしれない。夜は寒くて、追われる恐怖から解放されたからかな、急に冷えてきた。靴も履いてないで走ってたから、痛いし寒いしで、だんだん惨めになってきて。私なんてあいつらに犯されてしかるべき存在なのかって、さっきまであんなに必死で逃げてきたのに。そんなことまで思いつくようになった。だって、あいつらの慰めになるだけで、衣食住が与えられるんだ。私にはそれがお似合いなんだ。それとも、誰かの家の前で裸で倒れて、慰み者にでもなろうか。そんなことまで―――。
「見つけた! こんなとこまで逃げてやがった!」
大きな声が、夜の静けさで満たされた公園に響く。声の方向、財布を盗まれた奴。携帯を使っている。
(なんでこんなところにまで)
逃げる? でも私にはもうそんな気力も体力もない。でも、でも、もしも、ね。サタローは私のこと許してくれるかな。私は私を許せないけど、サタローは、私を許してくれるかな。こんな土壇場で、すがるような祈り。都合よく私の足は動いた。奴の意識が携帯に向かっている間に、公園のフェンスを乗り越えて、民家の塀を乗り越えて……。逃げて逃げて……。人も通らなければ、車もまばら。見つかれば終わる。今度こそ。知らない道でも、知らない人の庭でも、そこが逃げ道なら。
ついに、知ってる道に出た。サタローのマンションまで、もうすぐ。あと少し。
本当に……、ほんとうに、ね。うれしかった。うれしくてうれしくてなみだがでたの。もうほとんどうごいてくれないあしのせいで、よつんばいになってかいだんをのぼった。それでサタローのげんかんに、やっとたどりついたの。やっときづいた。わたしはかえりたかったんだ。ここにいたかったんだ、って。
くやしくてないてた。たちあがるきりょくもないわたしは、がんばって、さいごのちからでノックした―――。
ベッドに座って、語り続けてくれたセレナは、疲れたのかそのまま頭を垂れ深くうつむいた。泣くのを我慢している。泣いたらいけないと、自分に課すようにずっと話してくれた。
「はぁ……」
一息ついたその声は、案の定、小さく、早く震えていた。
僕は、ただ立ち尽くしていただけだった。セレナの二週間は長くて、壮絶だった。壮絶とか、そんな言葉で表現してはいけない。かける言葉を見つけられない僕には、形容だきない。それが悔しくて、悔しくてならない。情けない。こんなことを経験させてしまった僕が、こんなことを話させてしまった僕が。
「本当、どうしようもねぇな」
心の中に居る、どうしようもない僕は、ここに居るどうしようもない僕を勝手に動かす。そこにいるのはやっぱり、白くて、小さな、弱くてすぐに引き裂かれてしまうような存在だった。そのことに気づくのは、ごく簡単だったはずだ。
「セレナ……、ごめんな」
深く、強く。ここにお前はいていいんだと、伝わるだろうか。僕は君を許すと、聞こえるだろうか。抱きしめたセレナの温度は、かつて見せた雪兎のように芯まで冷たく、ほんのり暖かかった。そのか細い鼓動は、鼓動となって溶けることのない恐怖とトラウマと、何より自分の罪と戦っているのが伝わってきた。分けてほしい、その苦しみは僕のものでもある。より強く抱きしめる、抱きとめる。こんな温度で和らぐのならば、いくらでも分け与えてやる。
「サタロ、うぇっ、ぁあ、さたろーぉ……」
堰を切ったように、セレナが泣く。嗚咽とともに吐き出していく。
「うぁああああー! も、もう、もういやだー!」
恐怖を。
「ううう、わああぁーん! えっえっ、寒かったよぉ……」
寂しさを。
「なんで、なんで……、うううう」
孤独を。
「いやだー! ぜんぶぜんぶ! いやだー!」
自己嫌悪を。
この華奢な体に押し殺していたんだ。こんな灰色世界で生きていくには、セレナは鮮やかすぎて、またあまりにも無垢で稚拙だった。
もちろん、セレナがやってきたことは正しくない。同時にセレナも悪くない。他人は聞けば否定し、因果応報と嗤うだろう。けれど、百人のうち一人くらいは許してくれるだろう? 僕はその一人になるだけだ。善と悪、その境界はあいまいで、その基準は常に揺れ動く。この二律背反は僕にとって、ちんけな言葉では蹴っ飛ばせない。させてたまるか。「それはしょうがない、あきらめろ」とか、「気にすんなよ」とか、眠たい類の言葉は在庫処分でもしておけ。セレナはこうして傷ついたのだ。その事実がここにある。そうして悲しむ僕もいる。今はそれだけで十分だった。混沌としているしがらみを混濁させてしまえば、たちまちその色を消してしまいそうな淡い淡いセレナから、今日だけは守ってやらなくてはならない。その後からでもいい。自分の罪を背負うのは。
その夜、十二月九日。冬も冷え込む日。セレナが身も心も凍えさせて帰ってきた。わんわん泣き喚いて疲れたセレナは僕の肩にあごを乗っけて寝てしまった。僕もなんだか一緒になって泣いていたみたいだ。僕はゆっくりとセレナを布団に寝かせて、僕は、その隣で沈むように寝た。
「思い出したわ、私のこと」
「私、月の女神様だったみたい」
「……気まぐれ。で、旅行に来たみたい」
「ふふっ、どうして忘れていたんだろうね」
「あと……、二週間くらいしか、ここに居れないみたい」
セレナの言ったことは、真実だった。
朝日でも目覚ましでもなく、僕は突然の電話で目が醒めた。
「クロセさん、今日バイト入ってるんですけど」
バイト先からの、少し機嫌が悪い男メンバーの声。そして。
「えっ!」
バイトに遅れたという事実よりも、超至近距離にセレナの蠱惑的な寝顔があったことのほうに驚いた。吐息が僕の敏感な扇情をいたずらに靡かせて、襲ってしまいたくなる。
「え、あ! すいません……。今すぐ向かいます」
ここで襲うのは『たかちゃん』とやらと同じ人種だ。僕は電話を切って、ベッドから逃げだした。
昨日のアニメは結局撮れていなかったようだ。テレビの画面には煌々と「予約消去しますか?」の文字が映っていた。楽しみにしていたアニメではないから、別にいいや。しかし、今度は聴覚に訴えるものがあった。水の音……? 僕はハッとした。昨日お湯を張りっぱなしだった。約半日の間で水道代と光熱費がどれくらい上がったかを考えると気が遠くなってしまいそうだったが、時間がない。誰も入ることのなかったお風呂は、むなしくあふれて音を立てていた。すぐに閉め、そのままにしておく。洗濯機に使うことにしよう。そう思ってどうにか平静を保てた。